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2006年11月17日 (金)

愛国心とやらを巡って色々。

愛国心というと、ちょっと厳めしいような、古臭いような、あるいは照れ臭いような、何やら複雑な気持ちを抱いてしまう漢字三文字であるが――英語に訳すと「patriotism(パトリオティズム)」という。パトリオティズム……どこかのバンドやカフェの名前にあってもおかしくなさそうなフレーズだし(そうでもないかな)、これで少しオシャレ感が湧くのではないのだろうか、ってそんなことはどうでもいいか。

patri、パトリというのは「父の」という意味で、つまるところ愛国心とは「お父さんの育った場所を愛すこと」といったニュアンスが含まれている。お父さんの、というとお母さんは一体ドコへ行ったんだと思われる方もいるかもしれないが、まぁ古い言葉の中には昔の男性有利な社会の名残が残っていることもある。この場合「両親の育った場所」ひいては「祖先にゆかりのある場所」という解釈でよいだろう。

ただこの愛し方だが――「愛する」というのは実に個人によって様々で、例えば恋愛などが良い例となるだろうか。恋人が健やかに時を過ごせるよう尽力する愛し方もあれば、何もできなくとも恋人の幸福を祈る愛し方もある。あるいは半ば強引に自らの意思を押しつけてでも、相手を思いやろうとする不思議な愛し方もある。中には恋人を想うあまりに前後不覚に陥り、ストーキングまで発展してしまうという狂信的な愛し方もある。
実に様々で枚挙に暇がないほどだが、少なくとも自らが相手を欲し大切に、そして慕わしく想う感情が根底にあるのは間違いない。確か「愛している」という言葉を「御身大切に」と翻訳したのは武者小路実篤だったと記憶しているが、なかなか的を得た訳だと思う。元来、愛という価値観は海外製のものだが、日本語のそれにスライドすると「大切にする・したい」、あるいは「御身大切に」というのは相手の無事や幸福を祈るフレーズであるから、「健やかであることを願う」――つまり相手をいたわる気配りなのである。こうしてみると何とも思いやりのある響きだ。

つまり愛国心を、語源と日本語的な価値観を込めて解釈すると、「祖先に縁のある国を大切に思い、いたわりたいとする感情」となるのだが――漢字三文字の厳めしい字面の割に、のどかな優しい意味が込められていることがわかる(少なくともそのようであると解釈することは出来る)。この「祖先」というのも若干仰々しいのだが、例えば神武天皇であるとか聖徳太子であるとか、あるいは大岡越前であるとか、歴史的偉人ではなく、単純に両親や祖父母など、自らを育みいとおしんでくれた存在を思い浮かべる方がしっくりするだろう。まぁ、大岡越前を想起する方もそういないだろうが。

教育基本法・自民党改正案に「愛国心」が盛り込まれ、その意味するところと影響が問題視されて早三年の月日が流れているが、はてさて、一体何が問題なのやら。愛国心、とは戦前の軍国主義教育・皇国史観を呼び覚ますと野党を始め市民団体が熱心に非難しているが、言葉に含まれる意図というのは時代や政治、あるいは使用する個人によって異なるのはもはや常識であるし、前述したように「愛」という内面的な感情を行使するにあたっての行動は十人十色なのである。さらに愛国心という、個人そして地域の集合体で成り立った国家の"愛し方"など――国家の有体も、時代によって変化するのだから、愛し方もまた変化するであろう。恋愛に置き換えるなら、相手によって告白パターンを変えるのと同じである。また愛し方は十人十色であるが故に、いつの世も極右的な愛し方も存在するだろう。

"愛"という感情は実に多様な行動を生み出すのである。必ずしもコレだと規定されるものではないし、ましてや国を愛する、大切に感じる思いと軍国主義がイコールで結ばれるはずもない。愛国心というフレーズに即座に鳥肌を立てる人々こそ、愛を知らぬ感受性乏しき存在である。

そしてさらに問題とされるのが、政府が国を愛せよと、国民に半ば義務づける方針であることは民主主義的なのかという点である。なるほど、突然「愛せよ」と言われても――両親が唐突に「お前には許婚がいるのだよ」と言い出したようで、困惑してしまう心情も理解できなくもない。

ただ、ここが人間関係と異なるところで――自らが生まれた場所、また育まれた土地、そして言語ひいては生活習慣は逃れられないものなのだ。人間関係ならば相手との交友を遮断することで逃れられるが、日本で生まれ育ったこと、日本国籍であること、日本語で思考し話していること、畳の上で寝ていること、正座をすること、帰宅と同時に靴を脱ぐこと――これまで起きた現実からは誰も逃れられないのである。なぜならその現実の上に個人が立っているからただそれだけの理由であって、自らが自らとして存在するために受け入れざるを得ない運命のようなものなのだ。仮にこれらの事実を忌避したい気持ちが強く、どうしても他の文化の中で生きたいとしても、依然として在り続ける事実を肯定せねば次のステップなど踏めないだろう。愛国心とは、逃れられぬ運命を素直に受け入れるための潤滑油となるのではないだろうか。

そして当然、日本の教育は日本国家また日本人にとって、有益な人材を育成できるようなシステムであるべきである。例え他の民主主義国家であろうと、独裁国家であろうと、教育には共通した目的を持つだろう。リベラルな見地は存在するが、リベラルな組織・団体などは存在しない。志や主義思考を同じくする私的な集まりは、ある程度憲法で保障されているのであるから自由に行えばよいだろうし、あくまでも教育機関とは公的なものであり国家によって管理されているものなのである。これらも日本人として――というよりは、ある国家に属する国民として、享受せねばならない現実ではないだろうか。

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コメント

私は愛国心は正直ほとんど無い。 馬鹿な税金の使い方して借金まみれになってる国なんてフザケンナって思う。 不祥事だらけの国営放送は強制集金するとか言って、なくなってしまえと思うし。  でも、郷土愛は強いんですよ。

投稿: kaki | 2006年11月17日 (金) 17時10分

こんばんは、kakiさん。

愛国心(自分あるいは、自分の肉親などの生まれ育った場所を愛する気持ち)っていうのと、現在の政治や経済状況を肯定するのとは異なります。
むしろ自分の住まう国であるからこそ、改善されて欲しいわけですしね。根本的に、日本人であるという無意識的な自覚や、プライドがなければ、どのように改善されるべきかの具体案も生まれないと思います。
無関心、あるいは嫌いな国を否定するのは簡単ですけれど、肯定したり改善するべく尽力するにはその国に対し、心のどこかで好感を持っていなければ難しいと思うので。

パトリオティズムというのは、どちらかというと郷土愛に近い感覚だと思います。私も日本が好きというよりは、実家や今ある環境が好きです。まぁ、自分の属している地域が、日本にあるわけで、だからまぁ日本も好きだなぁと漠然と感じてしまうんですけどね。

投稿: ちゅう太to kakiさん | 2006年11月17日 (金) 17時33分

おはようございます、ちゅう太さん^^/。

愛国心って言葉自体は好きではないのですが、当たり前にあるような気がします。
誰かに教わるような事ではないような気もするし、そうじゃなくてきちんと教わるべき事のような気もします。

少なくとも政治的な利用のされかたは過去あったのは事実な訳で、それに嫌悪を持つように教育されてきたから、愛国心なんてないと思う人も多いのはしかたないのかな?
と思うこの頃です。

私の時代は少なくとも、教育というより躾けに近い、誰もが暗黙の空気として愛国心がそこにあったと思います。
だから、自分の生まれ育った郷土に対して愛着が生まれたのでは?などと考えております(笑)。

一番問題なのは、愛国心が正義の名の下に権力者が利用することで、愛国心が問題という人達の考え方をどうしても理解できません。

特に日本人は昔からスポーツの世界では全日本が好きな国民性があるので今さら愛国心といわれても・・・。
ただ、若い人達の思考では愛国心=悪と教え込まれた結果が見えたりします。
だから教育基本法に入れる事で対応したかったのかなと思いました。

郷土愛が本当にあるなら、その郷土をよくしたいわけです。
同じ国の中にある数ある郷土愛がぶつからないように、また郷土愛をもっと広い意味でとらえてもらうように愛国心は必要かと思いました。

投稿: じゅぁき | 2006年11月20日 (月) 10時31分

どもです、じゅぁきさん♪

そうそう、なんていうか…愛国心って、わざわざ教え込まれるモノじゃないんですよね本当は(笑)。なんとなく、心のどこかにあるもので…。日本で生きることに対して、何かしらの愛着があるからこそ、政治なり身の回りの環境なり良いものにできたらなぁと思うものですし…。。
わざわざ教育基本法に埋め込む必要がある現状が、最も悲しいことかもしれませんね。愛国心、が宣伝文句として一人歩きしてしまったら危険ですけど…。子供たちに、今みんなが育っている日本という場所を大切にしようね、ってな共同意識を伝えられればいいのかなぁと思います。

私も日本は好きですけど、どちらかというと、自分の故郷やいま住んでいる環境が好きだし、それらを漠然と守りたいなぁという思いの方が強いですし……私が持つ「愛国心」の内容を言葉にするならその方がより正確かもしれません。。。今住んでいる場所も、故郷も日本と言う国に属しているわけで、オオモトの日本が崩れちゃったら大変なことになっちゃうので(笑)、だからまぁ日本が「健康」であって欲しいなぁと願うばかりで…。

もちろん、日本という国で育まれた歴史を学んだ上での、日本に対する思い入れがないわけじゃないし、自分は日本人なのだなぁといった自覚を呼び覚まされる瞬間もありますけど。
逆に「自らが日本人だ」っていう自覚を覚えるように、育った過程やキッカケって、故郷への思いや、今ある環境が好きだとかそういったところから生まれているような…。

愛国心に反対している方々に故郷はないのですかねぇ…。。


投稿: ちゅう太toじゅぁきさん | 2006年11月21日 (火) 05時02分

う~ん、故郷というのは遠くて、自分が育ったときが幼い場所である事が条件なんですかね?(笑)。
私は物心ついたときに東京都下^^;;なわりに、田舎チックなところでしたので、故郷という感覚はないんですよね・・・。
今でも実家がそこにありますし、車で20~30分でつきますから(笑)。

そういった意味ではお婆ちゃんのいる福島は故郷って感覚が多少あります。
親父と共通する感覚はこれなんでしょう(笑)。

>愛国心に反対している方々に故郷はないのですかねぇ…。。
愛国心という感情は理解できても、言葉が理解できないと思うんですよね、話をしても。
だから郷土愛の拡張が愛国心じゃないみたいです。
戦争をおこした愚かな"言葉"という認識みたいです。
だから、間違いを正して教育基本法に入れたかったんだと思います。

だって、論争の具にされてる言葉なので、非常にかわいそうに思えますから^^;;。
もっと愛国心は心で感じて欲しいと思う、今日この頃でした^^/。

投稿: じゅぁき | 2006年11月21日 (火) 11時06分

うーん、なるほど。。。ウチの旦那も東京生まれ東京育ちなので、よく「オレには田舎みたいな場所がないんだよなぁ」なんてボヤきますが、それに近いものなのでしょうか…?? 故郷は遠きにありて、なんて言葉もありますし。。。育った場所を離れて改めて「故郷」となるのやもしれませぬ。ううむ、難しいですね(笑)。

まぁ、わりと故郷の定義って、「自分はここで育てられたんだなぁ」とか「この環境が自分を育ててくれたんだなぁ」っていう風な愛着があること以外、漠然としてますものね。。。
今現在住んでいるところと、育った場所が同じでも「故郷」でいいんじゃないかなぁ、なんて個人的には感じてしまいますが…やっぱり遠く離れて初めて「あそこは故郷なんだなぁ」、っていう自覚が生まれることもありますし。

まぁ、故郷だと自分が思える場所は全部故郷でいいんじゃないでしょうか? 心の故郷、なんて言葉もありますし(笑)。すっごいいい加減ですねコレ(爆)。

愛国心、という言葉に昔詰められた感覚を、今でも拭うことができず拒否してしまう方も…ある意味仕方がないのですよね。私もそういうことがあった事実そのものを、打ち消すことはできないと思いますし、打ち消すことが目的ではないような気がします。
でもまぁ、そんな事実もあったことを受け止めても尚、日本という国や現在住まう場所への愛着って、本能的に捨てられないと思うので…今みんなが住んでいる場所への、新しい共同意識を立て直すことが出来れば、いいんですよね。。きっと。

投稿: ちゅう太toじゅぁきさん | 2006年11月22日 (水) 02時54分

愛国心は必要でしょう。無いのはまずい。
「愛国心」という言葉は「軍国(帝国)主義」とは別ですから。
ナショナリズムじゃないんですもん。
元々の言葉の意味が帝国主義とは全く関係ない上に
声高に反対を叫ぶ人々の言うWW2時の愛国心ですら
「戦地で死にゆく人々」の愛国心は「友を思い、妻を思い」
命を掛けて国を愛したんだと思います。

国が推奨した「帝国主義」に都合が良い言葉として
「愛国心」を利用しようとしたんだろうと思います。
が・・・
皆の心に宿った愛国心は「本物」だった。と

愛国心(国を愛する)
大きくは日本国がより良い国になるように、
小さくは自分の周りが幸せになるように、
もっと違った言い方をするならば「和」
こういう事だと思います。
これが無いってのは大問題で
小さい頃から教えて当然の価値観だと思います。
また、アメリカとかイギリスとかなんかなら
キリスト教という共有モラル(善悪は言わないが)が有るが
日本は無いわけで共有すべきモラルのない日本だから
わざわざ「教えなきゃいけない」のかな?って思います

投稿: shigeyan | 2006年11月22日 (水) 17時44分

こんばんは、しげやんさん。お返事が遅れてしまって申し訳ないです。

私も…戦地に赴いた方々や、そのご家族や、あの頃の方々は皆それぞれ「愛国心」があったと考えています。例え反政府活動とされた、共産・無政府主義に傾いた方々にもそれはあったのでしょう。日本という国を好きだからこそ、守りたいあるいは改善したいということだったのだと思います。行動がそれぞれ異なれど、各々に自らが住む場所とその人々を守りたい、という気持ちがあったのだと…私は考えています。

>>大きくは日本国がより良い国になるように、
小さくは自分の周りが幸せになるように、
そうですね。共感します。
どちらも繋がっているのですよね。

>>キリスト教という共有モラル(善悪は言わないが)が有るが
日本は無いわけで共有すべきモラルのない日本だから…
悲しい現状ですよね。
先ほどの愛国心、小さくは自分の周りが幸せになるように…といった配慮が薄れてきているわけで…。
自分さえよければよいのだ、ってな傲慢な態度が堂々とまかり通る世相は悲しいです。
例えば映画館で携帯電話を切らなかったり、おしゃべりしていたり(この間デスノートを観たときも…腹立ちましたよー)、
ぶつかっても挨拶がなかったり、公衆トイレが汚かったり、エレベーターで「開」のボタンを押し続けている方へ降りる方は何一つ会釈もしなかったり、
……なんじゃこりゃー。
と東京で暮らし始めた頃は特に驚きましたよ(笑)。

それに、まぁ賛否両論でしょうけれど、
日本という国もなかなか捨てたもんじゃない、プライドを持ってもいい歴史や文化があるわけで、こういったことをもし若い方が知らなければ気の毒です。自分が生まれて育った国(親を選べないように、国からもなかなか逃れられない運命ですからね)が、情けなくてみっともない国だと思うと……無意識のうちに創造的な未来ってやつを考えられなくなっちゃう可能性もありますしね。。。

投稿: ちゅう太toしげやんさん | 2006年11月24日 (金) 05時10分

よこからすいません、じゅぁきです^^/。

>>キリスト教という共有モラル(善悪は言わないが)が有るが
たぶん、お二人とも歴史を多少なりとも知っていらっしゃるので書いてみますが、そもそも日本古来の信仰で八百の神々がいます。
一神教にはない、多神教による柔軟なモラルがあったと思います。

そもそも阿吽とか和は形や言葉ではなく心の問題です。
見えないものを信じる事は大切なはずです。
それを信じないように仕組まれた教育や報道がなされてきた結果ではないでしょうか?

例えば、私は幽霊というものを信じてません。
物理的にありえませんからね(笑)。
でも、宗教的な一環で、心にいると信じてます。
つまり悪い事をすれば見てる幽霊がいると。
だから知ってる人の目のないところでもできるだけルールを守ろうと思えます。

そういった目に見えないものを信じるのが多神教であり、必ず誰かが見てる。
バレなければやってもいいとか、物理的な事しか考えられない結果が愛国心すら”考えずに嫌悪”する仕組みができてるのかと思います。

それから和というものも誤解されています。
ルールを守った上で和は成り立つんだと若者は知りません。
これはいろいろ話してみたり、聞いた結果ですが、和を仲間意識にすり替えてます。
それは間違いで、ルールはしょせん人が作ったもので矛盾が生じ、その時にどちらも”ルール”上問題がないが、決められない事を和を持って貴しとなすわけです。
なんの前提もなく、犯罪仲間で和を使う事は間違いです。

長くなってすみません。
なんか書かずにいられなかったんです・・・。
お二人にというより、その他の人達に向けたメッセージとして・・・。

投稿: じゅぁき | 2006年11月24日 (金) 09時40分

どうもです。よこから、全然オッケーですよ♪ お気になさらないで下さいね。

私もそうですが、しげやんさんも、八百万の神々の存在やこれまで日本風土で培われたモラルが、「なかった」と言っているわけじゃないと思いますよ。ただ忘れられているのだなぁ、あるいは失われてしまったのかも、と残念に思う気持ちがあってこういった言い回しになってしまったし、しげやんさんの文脈を見てもそんな印象を受けます。

どちらかというと戦争に走るのは、どうも一神教国家の方が多いし、一人の存在が尊くその尊さは絶対のものなのだ、という一神教のゆえに複雑で"どれも正しい"ような宗教論争・戦争が生まれてしまうのでしょうね。どうしようもなく仕方のないことだと思います。
そういった意味では海外よりも比較的、日本の神道(と一口に言ってもこれまた色々なんですが)は大らかなものだと思います。私も好きです。気楽です(笑)。

>>そういった目に見えないものを信じるのが多神教であり…
ええと。
これに関しては一神教も同様だと思われます。この世に留まった霊(ゴースト)は一神教から生まれたと断定はできませんが、目に見えないものという点では神も同様です(これは信者でないからこその解釈かもしれませんが)。
例えばキリスト教では、信者の悪・罪をゴーストが見るのではなく、神が見ているわけであって、神が常に見ているからこそ善に務めようとするわけです。例え一人であろうと、目に見えぬとも、神という一人の尊き存在が常に自らの行動を見張っているのだと、感じているわけです。

一神教に比べ多神教の方が、柔軟だとされる所以は、目に見えぬものの存在を認めているかではなく、この世に絶対の存在を認めているか否かにあるでしょう。また一神教ではその絶対の存在が、善悪を裁くべき役目にあることも重要な違いです。善悪は1パターンであるという前提の下に信者たちは生きるのですから。
そういった意味では一神教国家では統一された強固なモラルがあるとも言えるでしょうし、それは集団を形作るにあたって決してマイナスではないでしょうね。

逆に日本では、多神教文化と言うと物々しいのですが、神と言う人間を超越した存在が数多いるという前提の下に、人々は生きているわけで……その神々も、一神教に比べると人々がよりよく生きるための助け・指針となる役目の方が大きいでしょうし、善悪の罰を下すばかりの役目を担っているわけでもありません。むしろ罰を与える役目は補助的なものと言えるでしょう。これまでの日本人は神に「正しさ」や「絶対」を求めなかったと考えます。
なのでとても、異文化の受け入れや他者への配慮は、意外と柔軟なのですが、「絶対の教え」がない故に、モラル・決まりとしてはもろい点もあるでしょう。

なぜなら日本ではこれまで人々が生活の中で培ったものこそが、神の教えに代わるものであり、倫理観でもあり不文律でもあるのではないでしょうか。法律とは異なる、人のウエから訴えかける絶対的な神の教えなんてものは存在しないとして生きてきているために……これらが絶対のものであると、信じるあるいは教える術はないので(あるとしたら、これまで大切にされてきたものだからとしか言いようがありません)、ある意味で非常にもろいものだと思います。こういった土台があるからこそ、異教の正しさも取り込めるわけですが。。。
なのでとっても、親のしつけも教育も、大切なのですがこれらがないがしろにされてしまったために、「ルールを守ろう」といった意識が薄れてしまったのでしょうね。ルールの意味するものと価値がわからない方が多いので…。

>>ルールを守った上で和は成り立つんだと若者は知りません…
なるほど…確かに、仲間意識とすりかえられているかもしれませんね。それも、仲間意識って本来もっと筋の通った、素敵なものだと思うのですが、「ナァナァにすること」になっちゃった感は否めませんよね。

>>どちらも”ルール”上問題がないが、決められない事を和を持って貴しとなすわけです…
最終的に、他者を尊ぶことに繋がっていくのですよね。きっと。

>>犯罪仲間で和を使う事は間違いです…
他者への影響を考慮できなくなってしまった、客観性が見られないことは悲しいものですよね。


投稿: ちゅう太toじゅぁきさん | 2006年11月25日 (土) 01時17分

じゅあきさんどもです。
ええっと、ちゅう太さんが書いてくれたっすw
八百万の神々は、私が神道の信者でして、はい。
非常に寛容な宗教観を持っております。

和に関してはじゅあきさんのおっしゃられるとおりですね。
私にとっての「和」とは他人を思いやる心が根底に無ければならないと思ってます。
付和雷同やなぁなぁのような和は和では有りませんね。

投稿: しげやん | 2006年11月27日 (月) 09時54分

こんばんは、しげやんさん。ちょっとコメントの公開が遅れてしまいました。
…今までも何度か、同じことでご迷惑をお掛けしてしまった記憶がありますが…たまに帰省したり、パソコンに向えなかったりするので、ご理解頂けると嬉しいです。申し訳ないです。。いつまでたっても表示されないと「なんで表示されないんじゃー」と、疑問あるいはご不満なお気持ちにさせちゃうのではないかと、ちょっと不安で…。。。

私も神道好きです。なんだか大らかで(笑)…居心地の良さを感じます。

投稿: ちゅう太toしげやんさん | 2006年11月28日 (火) 00時01分

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