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2006年11月21日 (火)

デスノート晩餐

映画「デスノート~the Last name~」を観た。何でも後編は原作と異なるラストを迎えているらしく、前編をテレビで観てしまった人間としては非常に気になるところだったし、公開初日から早数週間経った今ならばさすがに満席ということもなかろうと、旦那と共に映画館へ足を運んだ。

雨のせいもあってか予想以上に空いていた。あるいは、月曜日という週の始まりであったせいかもしれない。全体のおよそ三分の一程度しか席は埋まっておらず、私と旦那の両隣も空席で、とても快適だった。私達がよく利用する映画館はわりと席や列の間が広めに作られているので、多少混雑していてもそこそこリラックスできるのだけれど、さすがに隣に見知らぬ誰かがいると全く気遣わぬわけにはいかない。あまりワガママを言ってはいけないと承知しつつも、少しでも映画館では寛いでいたいし、できることなら寝転んで鑑賞できれば最高なのだけれど、まぁそうもいかない。せめて気兼ねなく足を伸ばせる幸運に授かれるよう、旦那ともども祈っていたのが通じたようだ。

というわけで、足を伸ばし椅子にだらしなくもたれかかり、なるべく身体の力を抜きながら鑑賞できた。既に原作を読んだ後なので、ついついそれと照らし合わせながら観ることになってしまうし、マンガの映画化とは大概にして原作の方が優れているので(というのは、マンガの抽象化された世界観は実写に向いていないせいなのだけれど)、ひょっとするとラストは詰まらなく感じてしまうかも……と危惧していたのだが、それは杞憂に過ぎなかった。原作を知る分の物足りなさは感じたものの、面白かった。

※コレより先、ネタバレもありますのでご注意ください。

本作は二人の若者によって正義の在り方が問われる物語である。

主人公である夜神月(やがみらいと)はデスノートを利用し、正当な罰を下すという大義名分のもと、夥しい大量の犯罪者殺人を繰り返す。彼の行動を「まさに正当な、これこそ正義だ」と支持する一般人はやがて彼を「キラ」と呼び崇め始める。これは何となく、被害者の泣き寝入りのような判決が繰り出され続ける、昨今の世相を現しているようでもある。
しかし、犯罪者の裁きや罰を下す権限とは、人間がこれまで正しくあるべき姿を追求した結晶である法律のもとに――例えそれが不当な判決を招くことになっても――行われるべきで、個人による恣意的な判断をしてはならないとする、Lなる謎の名探偵、及び警察関係者はキラを逮捕すべく捜査に心血を注ぐ。
注目すべきはどちらも自分ひとりの鬱憤を晴らすためではなく、「犯罪者なき優しい世の中」の構築を真剣に願っていることで、この点に関しては相反するものはないことだ。そのために主人公・夜神月も、Lを始めとする捜査本部の人間も心を砕いているのだ。本作の面白味は、この二つの平行線とその駆け引きにある。

ただ映画ではあまりこれらの姿が、原作ほど重厚ではなかった。また、原作ではLの後継者であるニアがキラを追い詰めるのに対し、映画ではあくまでも「キラ VS L」という図式を保っている。 その他の登場人物の役割にも違いがある。
しかし、仕方のないことかもしれない。マンガ原作では、「キラ」が全世界の秩序システムを掌握してしまいかねないほど、彼の支配とやらは長く続いたのだ。その間に起きた様々な事象を映画に詰め込むのはほぼ不可能だし、何もかも原作通りの筋書きが観客にウケるとは限らない――例えば映画「NANA」のように、原作マンガのコマを忠実に再現しようと心を砕く余り、退屈な仕上がりとなってしまった例もある。限られた時間の中で、映画らしく、原作の世界観を守りながらどれだけお客を楽しませるか、が大切なのだ――それでも、やはり醍醐味である駆け引きの緊張感を、いま少し盛り込むことができなかったのかと悔やまれるのだが。

まぁそれも、原作にふけってしまった後だからこそ感ずるものかもしれない。確かに前編映画がテレビ放映された頃は原作を手にとっていなかったのだが、あれはあれで十分に楽しめた。

むしろ原作よりも胸を打たれた展開もあった。「キラ」である主人公・夜神月の父は、キラ捜査本部に属する警察官なのだが、原作ではよもや息子がキラであるとは露知らず、死を迎える。しかし映画では息子を追い詰める、重要な役割を担うのである。自らの息子が”大量殺人鬼”であったと目前で証明されるわけだが、その際「お前の信ずる正義は正義ではないのだ」と毅然と諭す、男親らしい態度がよかった。
「キラ」なる人物をいかに解釈するか個々によって異なるだろうが、個人的には正義感は強いにせよ、未だ社会を知らぬ頭でっかちの学生の理論を振りかざす、幼児的な性質をどうしても拭えぬ存在に見える。このような存在には、社会という公の世界を生き抜いてきた、身近な人間――家庭では父親が現実を諭さねばならない。息子の過ちから目を反らさず、それは過ちなのだと怒りも悲しみも込めて諭す態度は非常に素敵だった。

そしてラスト、自らがキラであることが露見した際の、藤原竜也さんの演技。とてもよかった。自らの正義感が強いあまりに、死神とデスノートというツールに飲み込まれ、少し気が狂ってしまった雰囲気がよくにじみ出ていたし、哀れな結末を程よく惨めに演じ切れていたように思う。ここまで、気がふれてくれるのであれば、せめて三部作まで引っ張っていかに「キラ」がやり手だったのか、彼の理想としているあるいは訴えかけたい内容を、いま少し具体化したところで――ボロボロになって欲しかったとも感じた。それぐらい真に迫ったもので、今となっては前後編にまとめられてしまったことが口惜しい(それにしても、藤原竜也さんは「バトルロワイアル」シリーズなど、なんだか社会に疑問を投げかける若者の役が似合う方だ)。

しかし、このような物語が制作され、ウケているという現実はなんとなく残念である。小説など、人間の創作した物語が世を映す鏡であるとするならば、現在の世の中は”正義”の内容や、罪と罰のバランスへ人々が疑問を感じていることになる。確かに、日本の法整備はなぜか加害者に甘い感も拭えないし、人権という海外からのエッセンスが放り込まれてせいぜい一世紀経つか経たぬかといったところなので、まだまだ練られるべき余地が過分にあるだろう。長い歴史の中で私達が培ってきた倫理観と、輸入された人権意識、また現在ある犯罪とその判決状況もろもろを加味し、未来に残すべき秩序の根本たる法が望まれているのかもしれない。デスノートブームを見るにつけ、こんな風に感じるのはちょっと考えすぎなのかもしれないが。

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コメント

デスノートを読みたくなってきたじゅぁきです^^/。

そういえばキラって存在をどうとらえるかの部分。
私も若いときに同じような思考をしてた気がします。
ただ、年を重ね、多くの出会いの中で修正されていった気がします。

法律が100%絶対とか、ありえないじゃないですか?
所詮人間が創り出したものですから(笑)。
間違いは正していき、間違いの犠牲になった人がいれば、救助なり保障する。

そういった方向で常に向き合う事が必要なんだろう思いました。

原作って連載終わっていたんですね、知らなかった・・・。

投稿: じゅぁき | 2006年11月21日 (火) 11時27分

本当にデスノート、面白いですよ(笑)。今年一番ハマっちゃったマンガになるかもしれません。主題も面白いんですけど、それを盛り上げるキャラもなかなかクセがあって、なぜか心に残るんですよ。

私も月くんと同じように「犯罪者なんて(特に凶悪犯)、みんな死んじゃえばいいんだ」とか、「どうしてこんなに非道い事件の犯人が、こんなに軽い罪なんだろう」とか、「被害者が報われないシステムを作ってる国ってナニよ」と、憤慨したり悲しくなったりする気持ちはあります。
今でもそういった気持ちはありますが…
かといって、無鉄砲に個人が行動してはならないのですよね(場合によっては団体も含まれますね)。どんなにこの社会を改善できそうな、素敵なツールがあっても、今あるシステムを変えたいならば、例えば司法関係の職務に就くとか、国会議員として立候補するとか、まず現実的な「筋」を通さなきゃならないんだなぁ、と…。

父親や、今まで出会った方々や、社会人での経験を通して漠然とではありますが、教わりました。。。
特に父親は、全学連全盛期に大学で学生時代を送っていたのですが、父は「でもオレたち学生だし…」と、途中から冷めたと言っていました。最初は、ちょっとカブれたというか、憧れたそうですけど(笑…それで火炎瓶投げたこともあるそうですが)。大好きな三島由紀夫の自殺で、我に返ったそうです。
田舎から上京するとまず「運動してみるか」とカブれた、いかにも田舎モノらしい父をどこか可愛らしく感じてしまうのと同時に、「社会に出ないとダメなんだなぁ~」と、漠然と思いました。
うーん、でもこの話を思い出すと火炎瓶を投げる父の姿を想像してしまって…「に、似合わないでしょそれ」と心の中で今でもツッコミを入れてしまいます(笑)。

投稿: ちゅう太toじゅぁきさん | 2006年11月22日 (水) 03時16分

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