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2007年1月 7日 (日)

フセイン元大統領の死刑執行動画、流出

昨年末、あまりにも急にフセイン元大統領の死刑が執行された。既に裁判は終了してしまったので当然なのだけれど、まるで、イヤなことは2006年に押し込めてサッパリと新年を迎えたいという、かの国の焦りが見えるようで少しの切なさを覚えた。私はイラク国民でもないし、ましてやイスラム教徒ではない。ただ、自由だの平等だの漠然とした、それでいてその内容は甚だ欺瞞的な正義感を押しつけるあの国――さながら、求められてもいないのに「オマエはオレと結婚すりゃ幸せなんだ」と言い続ける勘違い男のような、あの国に――敗れた国家の元大統領に、似たような歴史を持つ国の人間として、少なからずの同情を覚えてしまうのだ。

彼の行った政治が全て正しいものであったかと問われると、もちろんひどく懐疑的になってしまう自分もいる。かといって、全てが間違っていたとは思わない。どちらにせよ、「文化が異なるのでよくわからないけれど」という前文句がどうしても必要になる。文化も風土も価値観も異なる場合、私の正しさや美意識は決して全ての彼らに当て嵌まることはないだろう。だからこそ尊重したいし、傲慢なアノ国にまるでレイプでもされてしまったような現状を切なく思うし、本来国民によってのみ倒されるべき政権がそうでなかったことに、同情してしまうのだ。

ただ、いくら同情していても、だ。

敗戦し、国民が追い込まれる事態となってしまった責任は確かにその国家の元首にある。たとえ、どれだけ懐疑的なシステムで行われていた裁判であったにせよ、あるいは彼のこれまでの政治に関わらず、敗戦はどこまでも追求されるべき指導者責任だろう。敗戦を喫した指導者は、退位や解散を求められるものだし、内政事情によっては追放されたり革命の風が吹き荒れたり――それでも、死刑というものはどうだろう。別に私は死刑反対論者でもないし、死刑に順じた罪を犯した人間にはきっちり引導を渡すべきだと考えているが――フセイン元大統領への死刑判決とその理由(反対勢力の「虐殺」)というのは、いまだにこじつけ感が否めない。きっと、アノ頃反対勢力が政権を握ってたら同じことしたハズだろ、なんて思ってしまう。根性が悪いな、と突っ込まれればそれまでなのだけれど。

まぁイラク国民でもない、完全なる第三者である私がアレコレ言っても仕方がない。同情を禁じえないかつての指導者の成仏と(果たしてイスラム教徒の方に成仏と言ってよいものか悩むけれど)、今後イラクで暮らしていく方々がどうか平穏でありますようにと、心の片隅で祈るしかない。

それでもコレだけはどうしても、おかしい。

フセイン元大統領の死刑執行の様子が、なんと動画で、実に様々なサイトにアップされているのだ。インターネット上にやたら流出しているのである。死刑執行の際、立会人のいずれかが携帯電話で撮影したものが、堂々とネット上に流れているというのだ。

あまりに、惨い。

中には死刑執行後の彼の表情が映し出されているものもあるらしい。らしい、というのは、サイトは発見したものの、どうしてもどうしても私はそこまで見ることができなかったのだけれど、その動画を説明している方が表情まで語っていたので、おそらくそうなのだろう。不思議なもので、ホラー映画はいくら観ても問題ないのに、ほんの数分間の死刑執行動画が見られない。対象がフセイン元大統領であるから、というよりは、ひとりの人間の死を目の当たりに出来ないのだ。見るのが怖いような、見てはいけないような――恐怖か、あるいは畏敬なのか、ただの臆病なのか――何にせよ思わず身体が固まってしまう。

見てしまう、あるいは最後まで目を反らすことなく見ることの出来る方々に、私はこれといって下品であるとか責められるべき何かを感じない。私だって、心の奥底にヤジ馬根性や好奇心というものがあって、評判になっていれば気になるものだし、もっと心臓が強ければひょっとしたら見てしまうかもしれない。どうしても見ることが出来なかったといくら言っていても、全く興味がなかったというわけではない。そんなに美徳があるわけじゃない。

それでも撮影し、ネット上に流した張本人に対する苛立ちは隠せない。無神経だ。撮影もどうかと思うが、何よりもネット上に流した行為が非常識で、情報を扱う人間としての品性が問われる事件なのではないかと思う。流出し、それが興味のあるモノであれば誰もがクリックしてしまうものなのだから(それは半ば人間の本能なのだから)、だからこそ情報を扱う人間は、理性をもって対処せねばならないのではないだろうか。

死刑囚に対する人権的配慮が必要か否か、という見地もある。死刑に値するような重い罪を犯した人間に、果たして人権的保護や配慮をする必要があるのだろうか、と。仮に私が被害者、あるいはその関係者であれば、「そんなものは必要ない」とサラリと言ってしまうだろうし、いつまでも人権思想によって保護される死刑囚とそんな世の中を恨めしく思ってしまうかもしれない。
それでも、その人権とやらが法によって認められているならば、全うせねばならない。それが法なのだ。既に刑罰が確定しており、たとえ被害者であろうと法に物申すには――筋を正すなら、例えば議員になるとか、法制定に関する職務に就いているなど、それなりの資格が要る。また判決や刑の執行は、被害者のためのみに行われるものではなく、後に生きていく残された人々のためにも決定され、行われるべきものなのだ(現在日本では、被害者のためのみならず、後に生きていく方々のためにもならない判決が繰り返されているために問題となっているわけだ)。まさに法は、万人のために存在しており、だからこそ遵守されなければならない。
しかし被害者に法に対する理性を求めるのはあまりに無慈悲で、その犯罪に対するどっぷりとした悲しみを唯一訴えることのできる存在なのだから――周囲が法の理性を守るしかないし、法の執行人はより一層の覚悟を持って職務にあたらねばならないだろう。

この――死刑執行の際、周囲にいた役人たちは、法に対する覚悟を持っていたのだろうか。法の理性を伝える行動を取ったと言えるだろうか。むろん、フセイン元大統領と敵対した人々がこの場にいたのだろうし、何度も繰り返し述べると私の抱える理性や文化、美意識とは違うものを持っているだろう。しかし、どうしてもこの行動が、後のためになるとは到底思えないのだ。

死んでなお、サラシモノとなってしまったフセイン元大統領のご冥福をお祈りしたい。

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