2007年2月19日 (月)

失言とヤクザとGTO

確か、私が意味不明に気落ちしていた時期だから――二週間ほど前になるのだろうか、その頃、柳沢厚生労働大臣が「女性は産む機械」だの、「子供を二人以上欲しいと望むのは健全」だとかなんとか言って、マスコミはもちろん、民主党や社民党など野党の面々に「女性蔑視だ」と責めたてられ、しまいには与党・自民党の中からも「辞任するべきなんじゃねーの」と声が上がり、やったらめったら非難されていた。

先の発言に関しては、「女性は子供を産む能力がある」ってなことをきっと言いたかったのだろうなぁと文脈的に推測できたし、女性である私はこれといって不快感は覚えなかった。子供を産む能力があるんだから”必ず”産め、あるいは産まない女性は役立たず、なんてコトをのたまわれたら、茶を吹き出して唖然としてしまうのだけれど、どうやらそういうわけでもない。後の「子供を二人以上望むのは健全」――それでは子供のいない、あるいは一人っ子の家庭は不健全なのかと誤解されてしまいそうだが、やはり文脈的に考慮するに彼はそういったニュアンスで述べているのではない。一人っ子の子供は、家庭内で只一人の"子供"という幼く弱く小さな存在であるため、とかく大切にされがちで(まぁ当然だが)、ちょいとワガママな性質に育ってしまう可能性が高いわけで――もう一人、家庭内に子供がいれば、例えば一つのお菓子を二人で分けたり、どちらかがガマンをしたりなど、労りと譲り合いの情操教育ができるわけで、そういった見地から「子供は二人以上いた方がいい」と考えて幸せ家族計画を立てるオトナも決して少なくない時代が、かつてあったはずだ。

というのは、ウチの父母や親戚がそうだった。

もちろん幼いうちからの情操教育は保育園や幼稚園でもそれなりにできるのかもしれないけれど、やはり家庭内で只一人の子供が王様のイスに座ってしまうのは余りよろしくない。かといって厳しくしすぎるのも問題だし、何より兄弟というのは、オトナが必要以上に介入することなしに、幼い子供という同等の立場で互いのルールを家庭内で育めるのだ。これはどうやら、オトナにとっては都合がよいらしい。なんでも、オトナがわざわざ口で説明したり叱責したりすることなしに、精神成長に不可欠の複雑で面倒な諸問題を、子供同士で解決してくれることが多々あるようで――ウチの母なぞは、「子供を産むなら二人以上にしなさい。小さいうちから『分けること』を覚えさせないと、ダメよ」なんて、柳沢厚生相顔負けの適当文句を昔から言っている。ちなみに、母が「だからアンタは産まれたのよ」なんて妹に言ったら、妹は「……私はお姉ちゃん(私)の教育のタメに産まれたんだね」となぜか肩を落としていたのだが、まぁよくわからんがそれでもよいではないか、妹よ。

当然、父も、それでいて両祖父母も叔父叔母も、皆似たような姿勢であるため、私にはイトコがやたらと多く、総じて24人もいる。

かといって今の世の中で――お子様一人が大学卒業するまで一千万以上かかります、なんてCMが流れるこのご時世、子供が一人できました、じゃあそろそろ二人目を…なんて、おいそれとは決定しづらいだろう。むしろ二人以上の子供が欲しいのに、言ってみれば家族で野球チームを作りたいのに、ものすごく難しい現実が目の前と将来に立ちふさがっているわけで、不安で――これは確かに不健全な世の中だ。邪推ではあるが、柳沢厚生相はこういったことを伝えたかったんじゃないだろうか。

それでも、ナンにせよ、どちらにせよ――柳沢厚生相は言葉の選択、言ってみれば言葉遣いってのがものすごくヘタだということがわかったわけで、そういう見地に立ってみればやはり、彼は大臣というポジションに不向きであると考えられる。自らの思考なんて、どんなに言葉を尽くしても様々な表情を使い分けても、在りのままの正確なカタチで相手に伝わるなんてコトは絶対にないと私は思っているけれど、だからこそ、立場と状況に見合った言葉を選択できる必要最低限の能力と論理、そしてより上質な比喩表現が必須なのだ。特に、国民に自らの思想を伝えるツールが言葉(セリフ)ぐらいしかない政治家にとって、論理や比喩表現はおろか、言葉遣いがヘタであることは致命傷だろう。気の毒だが、彼のような人物を大臣として掲げるのも、イチ国民としてちょいと困ってしまう。

……って、そんなこたぁ、どうでもよかった。

柳沢厚生相の"失言"がマスコミに取り上げられていた最中、もう一つ気になるニュースがあった。

麻布での発砲事件である。なんでも、日本でも五本の指に入るヤクザ・住吉組と山口組が抗争していたらしい。その後、渋谷でも同じ事件が起こり、また茨城県鹿島灘には死体が転がっているなんてこともあった。

勘弁してくれよ。失言でどうのこうのと揚げ足をとる前に、もっとやることあるんじゃねーの、……なんて小市民的で単純でちょいと理性も知性もへったくれもないのだけれど、疑問を覚えてしまった。こういうことに苛立ってしまうとキリがないし、なんだか疲れる。

と、いうわけで、先週は晴れてスロットとタイアップすることになった漫画・「GTO」を読んでいたのだけれど、なかなか面白かった。鬼塚教師を始め生徒それぞれがしっかりキャラ立ちしていたし、一つの話題がひと段落つきそうな手前でもう一つの話題が始まって、といった読み手を飽きさせないような配慮もよかった。

だからなんだ。よくわからなくなったところで、久々の更新とさせて頂いて、そんなわけでごきげんよう皆様。

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2007年1月 7日 (日)

フセイン元大統領の死刑執行動画、流出

昨年末、あまりにも急にフセイン元大統領の死刑が執行された。既に裁判は終了してしまったので当然なのだけれど、まるで、イヤなことは2006年に押し込めてサッパリと新年を迎えたいという、かの国の焦りが見えるようで少しの切なさを覚えた。私はイラク国民でもないし、ましてやイスラム教徒ではない。ただ、自由だの平等だの漠然とした、それでいてその内容は甚だ欺瞞的な正義感を押しつけるあの国――さながら、求められてもいないのに「オマエはオレと結婚すりゃ幸せなんだ」と言い続ける勘違い男のような、あの国に――敗れた国家の元大統領に、似たような歴史を持つ国の人間として、少なからずの同情を覚えてしまうのだ。

彼の行った政治が全て正しいものであったかと問われると、もちろんひどく懐疑的になってしまう自分もいる。かといって、全てが間違っていたとは思わない。どちらにせよ、「文化が異なるのでよくわからないけれど」という前文句がどうしても必要になる。文化も風土も価値観も異なる場合、私の正しさや美意識は決して全ての彼らに当て嵌まることはないだろう。だからこそ尊重したいし、傲慢なアノ国にまるでレイプでもされてしまったような現状を切なく思うし、本来国民によってのみ倒されるべき政権がそうでなかったことに、同情してしまうのだ。

ただ、いくら同情していても、だ。

敗戦し、国民が追い込まれる事態となってしまった責任は確かにその国家の元首にある。たとえ、どれだけ懐疑的なシステムで行われていた裁判であったにせよ、あるいは彼のこれまでの政治に関わらず、敗戦はどこまでも追求されるべき指導者責任だろう。敗戦を喫した指導者は、退位や解散を求められるものだし、内政事情によっては追放されたり革命の風が吹き荒れたり――それでも、死刑というものはどうだろう。別に私は死刑反対論者でもないし、死刑に順じた罪を犯した人間にはきっちり引導を渡すべきだと考えているが――フセイン元大統領への死刑判決とその理由(反対勢力の「虐殺」)というのは、いまだにこじつけ感が否めない。きっと、アノ頃反対勢力が政権を握ってたら同じことしたハズだろ、なんて思ってしまう。根性が悪いな、と突っ込まれればそれまでなのだけれど。

まぁイラク国民でもない、完全なる第三者である私がアレコレ言っても仕方がない。同情を禁じえないかつての指導者の成仏と(果たしてイスラム教徒の方に成仏と言ってよいものか悩むけれど)、今後イラクで暮らしていく方々がどうか平穏でありますようにと、心の片隅で祈るしかない。

それでもコレだけはどうしても、おかしい。

フセイン元大統領の死刑執行の様子が、なんと動画で、実に様々なサイトにアップされているのだ。インターネット上にやたら流出しているのである。死刑執行の際、立会人のいずれかが携帯電話で撮影したものが、堂々とネット上に流れているというのだ。

あまりに、惨い。

中には死刑執行後の彼の表情が映し出されているものもあるらしい。らしい、というのは、サイトは発見したものの、どうしてもどうしても私はそこまで見ることができなかったのだけれど、その動画を説明している方が表情まで語っていたので、おそらくそうなのだろう。不思議なもので、ホラー映画はいくら観ても問題ないのに、ほんの数分間の死刑執行動画が見られない。対象がフセイン元大統領であるから、というよりは、ひとりの人間の死を目の当たりに出来ないのだ。見るのが怖いような、見てはいけないような――恐怖か、あるいは畏敬なのか、ただの臆病なのか――何にせよ思わず身体が固まってしまう。

見てしまう、あるいは最後まで目を反らすことなく見ることの出来る方々に、私はこれといって下品であるとか責められるべき何かを感じない。私だって、心の奥底にヤジ馬根性や好奇心というものがあって、評判になっていれば気になるものだし、もっと心臓が強ければひょっとしたら見てしまうかもしれない。どうしても見ることが出来なかったといくら言っていても、全く興味がなかったというわけではない。そんなに美徳があるわけじゃない。

それでも撮影し、ネット上に流した張本人に対する苛立ちは隠せない。無神経だ。撮影もどうかと思うが、何よりもネット上に流した行為が非常識で、情報を扱う人間としての品性が問われる事件なのではないかと思う。流出し、それが興味のあるモノであれば誰もがクリックしてしまうものなのだから(それは半ば人間の本能なのだから)、だからこそ情報を扱う人間は、理性をもって対処せねばならないのではないだろうか。

死刑囚に対する人権的配慮が必要か否か、という見地もある。死刑に値するような重い罪を犯した人間に、果たして人権的保護や配慮をする必要があるのだろうか、と。仮に私が被害者、あるいはその関係者であれば、「そんなものは必要ない」とサラリと言ってしまうだろうし、いつまでも人権思想によって保護される死刑囚とそんな世の中を恨めしく思ってしまうかもしれない。
それでも、その人権とやらが法によって認められているならば、全うせねばならない。それが法なのだ。既に刑罰が確定しており、たとえ被害者であろうと法に物申すには――筋を正すなら、例えば議員になるとか、法制定に関する職務に就いているなど、それなりの資格が要る。また判決や刑の執行は、被害者のためのみに行われるものではなく、後に生きていく残された人々のためにも決定され、行われるべきものなのだ(現在日本では、被害者のためのみならず、後に生きていく方々のためにもならない判決が繰り返されているために問題となっているわけだ)。まさに法は、万人のために存在しており、だからこそ遵守されなければならない。
しかし被害者に法に対する理性を求めるのはあまりに無慈悲で、その犯罪に対するどっぷりとした悲しみを唯一訴えることのできる存在なのだから――周囲が法の理性を守るしかないし、法の執行人はより一層の覚悟を持って職務にあたらねばならないだろう。

この――死刑執行の際、周囲にいた役人たちは、法に対する覚悟を持っていたのだろうか。法の理性を伝える行動を取ったと言えるだろうか。むろん、フセイン元大統領と敵対した人々がこの場にいたのだろうし、何度も繰り返し述べると私の抱える理性や文化、美意識とは違うものを持っているだろう。しかし、どうしてもこの行動が、後のためになるとは到底思えないのだ。

死んでなお、サラシモノとなってしまったフセイン元大統領のご冥福をお祈りしたい。

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2006年11月17日 (金)

愛国心とやらを巡って色々。

愛国心というと、ちょっと厳めしいような、古臭いような、あるいは照れ臭いような、何やら複雑な気持ちを抱いてしまう漢字三文字であるが――英語に訳すと「patriotism(パトリオティズム)」という。パトリオティズム……どこかのバンドやカフェの名前にあってもおかしくなさそうなフレーズだし(そうでもないかな)、これで少しオシャレ感が湧くのではないのだろうか、ってそんなことはどうでもいいか。

patri、パトリというのは「父の」という意味で、つまるところ愛国心とは「お父さんの育った場所を愛すこと」といったニュアンスが含まれている。お父さんの、というとお母さんは一体ドコへ行ったんだと思われる方もいるかもしれないが、まぁ古い言葉の中には昔の男性有利な社会の名残が残っていることもある。この場合「両親の育った場所」ひいては「祖先にゆかりのある場所」という解釈でよいだろう。

ただこの愛し方だが――「愛する」というのは実に個人によって様々で、例えば恋愛などが良い例となるだろうか。恋人が健やかに時を過ごせるよう尽力する愛し方もあれば、何もできなくとも恋人の幸福を祈る愛し方もある。あるいは半ば強引に自らの意思を押しつけてでも、相手を思いやろうとする不思議な愛し方もある。中には恋人を想うあまりに前後不覚に陥り、ストーキングまで発展してしまうという狂信的な愛し方もある。
実に様々で枚挙に暇がないほどだが、少なくとも自らが相手を欲し大切に、そして慕わしく想う感情が根底にあるのは間違いない。確か「愛している」という言葉を「御身大切に」と翻訳したのは武者小路実篤だったと記憶しているが、なかなか的を得た訳だと思う。元来、愛という価値観は海外製のものだが、日本語のそれにスライドすると「大切にする・したい」、あるいは「御身大切に」というのは相手の無事や幸福を祈るフレーズであるから、「健やかであることを願う」――つまり相手をいたわる気配りなのである。こうしてみると何とも思いやりのある響きだ。

つまり愛国心を、語源と日本語的な価値観を込めて解釈すると、「祖先に縁のある国を大切に思い、いたわりたいとする感情」となるのだが――漢字三文字の厳めしい字面の割に、のどかな優しい意味が込められていることがわかる(少なくともそのようであると解釈することは出来る)。この「祖先」というのも若干仰々しいのだが、例えば神武天皇であるとか聖徳太子であるとか、あるいは大岡越前であるとか、歴史的偉人ではなく、単純に両親や祖父母など、自らを育みいとおしんでくれた存在を思い浮かべる方がしっくりするだろう。まぁ、大岡越前を想起する方もそういないだろうが。

教育基本法・自民党改正案に「愛国心」が盛り込まれ、その意味するところと影響が問題視されて早三年の月日が流れているが、はてさて、一体何が問題なのやら。愛国心、とは戦前の軍国主義教育・皇国史観を呼び覚ますと野党を始め市民団体が熱心に非難しているが、言葉に含まれる意図というのは時代や政治、あるいは使用する個人によって異なるのはもはや常識であるし、前述したように「愛」という内面的な感情を行使するにあたっての行動は十人十色なのである。さらに愛国心という、個人そして地域の集合体で成り立った国家の"愛し方"など――国家の有体も、時代によって変化するのだから、愛し方もまた変化するであろう。恋愛に置き換えるなら、相手によって告白パターンを変えるのと同じである。また愛し方は十人十色であるが故に、いつの世も極右的な愛し方も存在するだろう。

"愛"という感情は実に多様な行動を生み出すのである。必ずしもコレだと規定されるものではないし、ましてや国を愛する、大切に感じる思いと軍国主義がイコールで結ばれるはずもない。愛国心というフレーズに即座に鳥肌を立てる人々こそ、愛を知らぬ感受性乏しき存在である。

そしてさらに問題とされるのが、政府が国を愛せよと、国民に半ば義務づける方針であることは民主主義的なのかという点である。なるほど、突然「愛せよ」と言われても――両親が唐突に「お前には許婚がいるのだよ」と言い出したようで、困惑してしまう心情も理解できなくもない。

ただ、ここが人間関係と異なるところで――自らが生まれた場所、また育まれた土地、そして言語ひいては生活習慣は逃れられないものなのだ。人間関係ならば相手との交友を遮断することで逃れられるが、日本で生まれ育ったこと、日本国籍であること、日本語で思考し話していること、畳の上で寝ていること、正座をすること、帰宅と同時に靴を脱ぐこと――これまで起きた現実からは誰も逃れられないのである。なぜならその現実の上に個人が立っているからただそれだけの理由であって、自らが自らとして存在するために受け入れざるを得ない運命のようなものなのだ。仮にこれらの事実を忌避したい気持ちが強く、どうしても他の文化の中で生きたいとしても、依然として在り続ける事実を肯定せねば次のステップなど踏めないだろう。愛国心とは、逃れられぬ運命を素直に受け入れるための潤滑油となるのではないだろうか。

そして当然、日本の教育は日本国家また日本人にとって、有益な人材を育成できるようなシステムであるべきである。例え他の民主主義国家であろうと、独裁国家であろうと、教育には共通した目的を持つだろう。リベラルな見地は存在するが、リベラルな組織・団体などは存在しない。志や主義思考を同じくする私的な集まりは、ある程度憲法で保障されているのであるから自由に行えばよいだろうし、あくまでも教育機関とは公的なものであり国家によって管理されているものなのである。これらも日本人として――というよりは、ある国家に属する国民として、享受せねばならない現実ではないだろうか。

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2006年11月 9日 (木)

フセイン元大統領に死刑判決

フセイン元大統領に先日死刑判決が下ったが、年内にも執行される予定らしい。物悲しいニュースで、東京裁判の歴史を持つ日本で育った一人の人間として、切なく思う。

各国メディアで勝手に「独裁者」と銘打たれ、あたかも悪の根源かのようなイメージが報道されてきたフセイン元大統領だが、その実は教育制度の整備によってイラク国民の識字率や知力を高め、女性の社会進出を奨励するなどイラク近代化に大きく貢献した人物なのである。"独裁国家"などと、アメリカを始めとする民主主義国家によって様々な批判がなされてきたが、国家にはそれぞれの事情があるのだから、必ずしも多数決で抽出された民意を実現することが良き統治方法とは限らぬだろうし、民族間の紛争やまぬイラクで何故アメリカを代表とするような民主主義政治を遂行できるのだろう。

アメリカの、他国の事情も歴史も文化も思想も尊重せず、さも自らが神の国家のように振舞うという厚顔ぶりには、心底辟易としてしまう。
侵略的行為そのものを否定するつもりもなく、それは弱肉強食という人も逃れられぬ自然の摂理を証明する一つの必要悪のようにとらえているが、アメリカのやり口というのはそれにしても品性を欠いたもののように思う。確かに戦に負け、イラクを路頭に迷わせた責任は統治者であるフセインにあるものの、彼を裁く権利はイラク国民のみにあるのである。さらに言うならば、フセイン元大統領の政治を批判し改善したいのであればその権利もイラク国民にしかないのである。一体なぜ遠く離れた、文化も宗教も、法制度も異なるアメリカの法廷でフセイン元大統領が裁かれなければならぬのか。

そして東京裁判では原子爆弾投下については触れられず、今回の裁判でも大量破壊兵器が見つからなかった事実は全く裁かれない。勝てば官軍、とは言ったものだが、法の下では何人たりとも平等であるという世の中のルールを無視した正義など、正義足りうるのだろうか。その上、ブッシュ大統領はよく「正義」という単語を演説で使用するのだから、全くお笑い種である。

フセイン元大統領が捕らえられたとき、あるいはイラクが敗戦を迎えたとき、こうなることは予測できていたものの、いざその判決が下ってみるとひどく物悲しい気持ちになった。このニュースを淡々と伝える日本のメディアにも、情けなさを再び覚えた。少なくともGHQ統治下にあった十年間で、日本人の政治意識、歴史認識あるいは死生観までもが大きく変化した。これによる数々の負の遺産もあれば、恩恵もある。ただ敗戦の歴史があって現在があり、その空気を吸いながら今の私は生きているので、少なくともアメリカに占領統治された悲しい歴史も受け入れなければならない。しかし、受け入れることと、忘れることは大きく内容が異なるのだ。現在のイラクと同じ歴史を持つ日本で育った人間が、このニュースに不感症であるなど、ブッシュ大統領よろしくお笑い種である。

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2006年10月14日 (土)

核実験がされたけれど-2

本日14日より、日本政府独自の北朝鮮に対する制裁が発動される。また国連でも国連憲章第7章に基づき、諸外国よる厳しい制裁内容が決定されるようだ。

核実験は自衛力の強化という大義名分を振りかざす北朝鮮国家にとっては、「なんでまたこんな無慈悲なことをされなきゃならんのじゃ」とお茶を噴出す対応かもしれないが…まぁ、仕方がないのである。彼らが軍事力をエサに、他国へハイエナのように擦り寄るのはほぼ間違いないし、無駄な戦など――しかも冷戦の名残が消えぬ、北朝鮮を標的とした戦など――好まぬ各国は、野良犬にパンを投げる思いで援助する。けれどもパンをいくら投げようと、北朝鮮国家はパンをたちまちテポドンにしてしまう。困ったことだ。ちっとも尻尾を振ってくれない。今にも噛みつきそうだし、どうやら悪性のアカ菌による狂犬病にかかっているようなので、できれば保健所に引き取って欲しいのだが、おいちょっとタンマだ、保健所ってオレたちが属する国際連合じゃないか、よっしゃここはワクチン準備だと、彼らはどんなワクチンがよいか協議した結果、どうやら国連憲章第7章がよいらしいという結論が出た次第である。

その協議や決定内容に日本がどれだけ参加あるいは貢献しているかというと、甚だ微妙な位置をとっており、つまるところ特別有益な行動をとっているようには見えない。国連憲章第7章には武力行為に関わる内容も盛り込まれているので、憲法第9条を掲げる日本はアメリカの補助をするしかない。援助を続け、戦後朝鮮半島出身の人間をほぼ無差別に受け入れた挙句、拉致をされ今なお武力的脅威に苛まれる日本が、国際社会の場で発言を制限されアメリカの補助的な位置に立たされるのはいささかみっともないかもしれない。しかしそれでも…制裁行動を全うする自衛隊員の方々は、命の危険にさらされかねない。ありがとうございます、どうかどうかご無事で…と祈らずにはいられない。

また独自の制裁を考案し発動に踏み切った、日本政府の判断も評価に値するだろう。もちろんこれが全く迷惑も被らない無関係な異国に対するものであれば、やや品性を欠いたものであるし、確かに核拡散防止条約を脱退した北朝鮮に対して核爆弾開発・保持とは何事かと訴える行為にしては――たとえ原水爆で悲しい現実をつきつけられた日本であろうと――対他国であるのに厳しすぎるものだ。
しかし何よりも、拉致問題の早期解決、また破産大国日本はこれ以上援助はできぬという意志表示としては、なかなか確固としたものである。

もちろんそれは、背後にアメリカサマがいるからであって、戦後"12歳の子供"からせいぜい思春期の高校生ほどにしか成長しておらぬ日本単独で可能な判断ではあるまい。それでも何事も結果が重要である。有意義な結果を求めるための行動として、適切な措置をとったことに関しては評価されても良いはずだ。

今回の制裁内容――①北朝鮮籍船舶の入港を全面禁止する②北朝鮮からの輸入を全面禁止する③北朝鮮国籍保有者の入国を原則禁止する――半年という期限付きであるものの、北朝鮮国家にとってみればプライドと経済を痛めつけられる内容である。もちろん、日本の漁業関係者にも多少の打撃を与えるものではあるのだが(中には北朝鮮ガニなどを買い取り、それを売ることを生業とする方もいるため)、野良犬に与える初期的な躾としてはまずまずだし、むしろ躾をすることに本腰を入れ始めた政府の存在が心地よい。

少しずつ、日本の外交が変わりつつある。戦後日本はこと朝鮮半島に関しては軟弱な外交を続け、それが現在の北朝鮮を育てる一環となってしまったと言っても過言ではない。ついこの間まで朝鮮半島に無礼を働いたと頭を下げていた国民が、突如右傾化し浮かれているのが気になるが、何はともあれ政府は結果を見せねばなるまい。良き結果を見せるべく、現実的に心を砕き始めた政府には――心もとない点が様々あれど、期待せずにはいられない。

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2006年10月13日 (金)

核実験がされたけれど

北朝鮮が核実験を遂行してずいぶん誇らしげな態度をとっているようだけれど、世界各国よりの非難もずいぶんなものである。非核三原則を掲げる日本はともかく、アメリカだろうとフランスだろうと中国だろうと、いかめしい軍隊が整備されている国の殆どが核爆弾なるものを保持しており、現在だってそれに勝る強力な武力の開発に力を注いでいることだろう。

日本は1945年8月に広島・長崎両都市が核の被害にあい、多大なる――想いを馳せるしかないのだが、街は崩れ、人々は焼けただれ、生き残った方々もその子孫も遺伝子レベルの病の不安を抱えるような――悲しい現実を被っている。世界で唯一、核の被害とその痛みを身をもって証明させられた国なのであるが、それでもなお、世界から核が消滅することは無く、各国の最終軍事的手段として温存されている。
もちろん日本が核による被害がどれほどの損失であるか、非人道的な武力であるか、国家間の交渉手段である戦争だからといってやっていいことと悪いことがあるのだといった――喧嘩のルールめいたものを世の中に訴えたことなど、基本的にはなく、軟弱かつ非力な態度を続けていたことに、国民は苛立ちを覚えてもよいだろう。しかし日本は憲法九条により一切の戦争を放棄している現在、自らの血を流してまで母国を守る覚悟と設備を持った諸外国に対し、のうのうと平和を説くこともできまい。

かといって日本が何かを訴えることが出来たとて、世界の核事情は変化を見せぬだろうし、核拡散ウンタラ条約が結ばれたってどこの国も、まるで自分の国を覆うシェルターのように軍備増強、核爆弾保持を怠ることはない。いつ何時も、平和と暴力は共存していて、平和を守るための暴力であれば、武力だとか軍事力だとか、あるいはそれに携わる人々を正規軍だとか官軍だとか、軍隊だとか、ただの暴力や暴力団からたちまち筋の通った名称に変化し、いかにも正しい存在であるかのように――さながらイエス・キリストさえも認めているかのように――人々の目に映る。そして平和を乱す暴力行為は、いつも罪に問われる仕組となっている。北斗の拳のケンシロウだって、善良な人々を守るわけでもなく、ただ思いつきで暗殺拳を使用していればただのテロリストである。暴力は状況によって、名称とその存在意義が大きく異なる。

しかし平和というのも暴力同様、状況によって異なるもので、非常に厄介なのである。判りやすく、かつ解決し難い問題が民族・宗教、言ってみれば思想問題であり、アメリカとイスラム圏の人々が覚える平和や安息は、内容の全く異なったものであることは明白である。誰しもが開放された社会を望んでいるわけでもないだろうし、古くから遵守してきた慣習を守れる状況が平和であると、もしくは平和に繋がるはずだと信じて疑わぬ人々もいる。それじゃカネと資源が上手く流通しきれねぇだろうと、ヤクザな攻め立てをしたのはアメリカであり、彼らのように歴史も培った文化も浅い国家にとってみれば、カネと資源が何より大切なのだろうということは、容易に想像がつく。古い歴史と文化を育んだ日本人にとってみれば、野蛮な行為に見えるし、私もそのように感じる一人だが、アメリカ人が平和を感じる手段として必要なものなのである事実そのものを、追及する権限などない。これ以上日本がコケにされれば話は別だが、現段階で、武力による無残な攻撃を受けているわけでもないし、何よりアメリカ市民ではないからだ。

よって北朝鮮が共産主義国家であろうと、国家方針として軍備をいくら増強しようと、他国があれこれとヤジを飛ばすのはいささか品の無い話である。もちろん他国の援助に対する恩も省みず――日本などは援助をした挙句拉致までされているというのに――傍若無人な振る舞いを見せる北朝鮮国家も、犬の糞のような集団ではある。されど、思想や国家方針そのものは、他国にとっては特別関係のない話で――たとえ北朝鮮人民とやらがいくら餓死していようと、だ――そこまで共産主義・独裁国家が気に入らぬのであればアメリカこそ一発お見舞いしてやってはどうか。ロシア以外、如何なる国も文句を言うまい。そしてロシアも、プライドは傷つくだろうが北朝鮮が消滅しようと、実質的な被害などあるまい。

核実験そのものは、あらゆる状況を考慮した上での北朝鮮の政治的判断であり、幼稚な判断ではあるが、仕方のないことではある。付け加えておくが、私には決して北朝鮮に思い入れなどないし、ひたすら拉致問題の解決を願うばかりだし、拉致を国家レベルで行うような国などやはり鼻糞である。
問題は、核実験を遂行したか、ではなく、如何に今後の北朝鮮問題を解決するかその手段なのだ。ここ数日のテレビ報道はそれを忘れているようで、ひどく憂鬱になる。核がどれほど恐ろしいものなのか証明してみせた国が、一体何をやっているのだろうかと情けなくなる。マスメディアはいつも、憲法問題も何もかも、ご近所の井戸端会議レベルに落としてしまう。面白けりゃ何をやったっていいというのは、カネと資源が手に入れば空爆したって構わないとするアメリカや、援助のためならテポドンも良しとする北朝鮮と何ら変わりが無い。非常に下品だ。

それもこれも、戦後の日本政府が、ただただ卑屈な外交を重ね、60年たった今も法整備もされず、ただ太平洋にポカンと浮かんでいるだけの国づくりをしてしまった結果である。政治や法が間違っていると、人間の心は腐る。これから負の遺産を、良く活かし豊かにせねばならない。安倍総理やその他の政治家、そして今後総理となる方々は多大なる責務を背負うわけだが――ぜひ頑張って欲しい。イチ国民である私は、後の世代に何か残すべく、主婦として子を産み子を育て、旦那とともに家庭を守ることに尽力しよう。

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2006年10月 3日 (火)

財務省、北朝鮮銀行の口座凍結

ニュースや新聞などで報道されているので既にご存知の方も多いだろうが、昨日、財務省によって北朝鮮銀行の口座が一つ凍結された。いわば金融制裁である。

凍結されたのは、ピョンヤンにある「タンチョン・コマーシャル・バンク」名義の外貨立て預金口座。日本国内の金融機関に開設されていたことが判明したため、凍結された。いよいよ政府も制裁措置に意欲的になってきたかと期待したが――なんだか、あまり効果はないようである。この口座、預金が1000ドル(11万8000円程度)ほどしかなく、過去十年以上にわたり使用された形跡が見られなかったという。

目の覚めるような効果を望んでしまう者にとっては、「だったらやらなければいいのに」と思わず口に出してしまう行動だが、まぁそれでも、腰の重い政府がアクションを起こしたことに意味があるとも言える。なんとも微妙なところだ。

「しかし、なんであんまり効果が無いってホントに言い切れるんだよ」と不思議に思った方はおられるだろうか? そんな方には、朝鮮総連のホームページを閲覧されることをオススメしたい。北朝鮮や朝鮮総連そのものに痛手を食らうような措置がとられると、ほぼその日のうちに怒りを露にするのでわかりやすいのだ。つまり、彼らが憤怒を表したものは効果があって、無反応であれば効果なしの傾向が強い……と私は思っている。新総理が誕生し、拉致問題など北朝鮮絡みの報道が増えるだろうが、なんだかワケがわからなくなってしまったとき、ぜひ試してみて欲しい。

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2006年9月22日 (金)

東京地裁「国歌斉唱の義務なし」判決

Syosodatteyo 今日は「パチスロだよ黄門ちゃま」の設定5に着席し、見事に3万負けたのでテンション高めでいこうと思う。

とりあえず今日のニュースである「国歌斉唱の義務なし」判決。東京地裁は学校など公的な儀式の場で「国旗に向かった起立と、国歌斉唱の義務はない」という判決を下したのだ。左の写真は勝訴した反対運動の支援者たちだ。

あーもうホント、どうなっちゃってるのよニッポンは。

おいおい何が「画期的判決」なんだ……自分たちが一体何をしているのか無自覚な反対運動団体よ。楽しいか、え? ずいぶん血色のいい顔つきをしているが、そんなに嬉しいか。一体何年日本人やってるんだ。とほほ。

そもそも一体誰が国旗掲揚の際の起立、国歌斉唱を義務づけていたのか。学校の儀式で自然な流れで行われているだけじゃないだろうか。少なくとも私が学生の頃はそうだったし、立ち上がったり、腹に力を込めて唄わなきゃならなかったり、多少面倒ではあるけれど、まぁいいやと思った。多分周りの同級生もそうだった。面倒だけれど、「義務づけされている」とか「義務づけられるなんてイヤだ」「なんで義務なの」と、儀式の流れの一環であるその行動に特別な疑問も怒りも覚えなかった。そもそも、そんなことに目くじらをたてることにアイデンティティーを感じるほどヒマでもなかった。

アホくせーな。

石原さん、言ったって。もうガツンと言ったって。Tell me,"say GATSUN"!!

Ishiharasan

「まったく裁判所も反対運動の人間もどうかしてるよ。

ありえないね。ありえない。

こんな裁判やるんだったらね、パチンコ屋のガセメールを詐欺罪で訴えるべきだね」




……ザッツライト!!

※別に全面的に石原氏を支持しているわけではありません。

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2006年8月27日 (日)

カジノ、沖縄が候補地に?

自民党政調会長・中川秀直氏が那覇市の講演で、「カジノ導入に関しては、ポスト小泉政権の3年間のうちに法制度の整備をしたい」と話したという。カジノ法案に関する基本方針はまとめられているが、もちろんまだ合法化はされていない。これからの3年間、つまり2009年までには法制度を完成させたいのだろう(具体的なカジノ設備建設・営業に関しては、基本方針によると2011年を想定しているらしい)。

また、同氏は「沖縄が手を挙げるかどうかは皆さんの選択だ。(手を挙げれば)与党としてもしっかりと受け止めていく」と沖縄も候補地に挙げられる可能性を示唆した。

わざわざ与党の政調会長が沖縄でこのような発言をすることに、何かしらの意図が働いていないとは言い切れないだろう。党内では沖縄もカジノ建設候補地に上がっているということだ。

確かに沖縄には外国人観光客も多いだろうし、何より米軍基地がある。米軍の人間が遊ぶには格好の場所となるだろう。この「カジノ建設」の目的はもちろん国民に新たな娯楽場を提供することもあるが、基本的には"外国人向け"のレジャー施設を建設したいのだ。どんな事情にせよ、外国人が多く居留、または集まる地域が候補地にあがることは何ら不思議ではない。

ただ沖縄に建設すると言えど、いつ頃を想定しているのかは定かではない。営業開始の目標とされる2011年には、2~3ヶ所設置することが予定されている。最大予定設置数は10ヶ所なのだが、まず数ヶ所で様子を見てその後の増設を検討するという。果たして2011年なのか、様子見の後なのか――このような発言が今の段階で出ること、また沖縄の地域性を考慮すると、スタート年である2011年に建設される可能性が高い気もするが――現段階ではもちろん不明である。

沖縄の方々がこの発言をどのように受け止めているか、わからない。個人的にも沖縄出身の友人もいないし、ただ思いを馳せることしかできないのだが……なんとなく気の毒だ。基地があること自体同情してしまうし(それは他の米軍基地がある地域も同じなのだが)、米軍兵士とのトラブルだって政府は関与しないばかりか、マトモな対処もできず、ひいては沖縄県民を守る姿勢が見受けられない。その上で半ば実験的に"カジノを建設する"となっては、不満を抱く方もいるだろう。

もちろん、カジノ建設により失業者の軽減や県財政が潤う可能性も十分あるし、観光地としてますます発展するかもしれない。きっと、何も悪いことばかりではない。それでも、内地に住む一人の人間として、「政府は沖縄を都合よく扱っているのだなぁ」という疑念を抱かざるを得ない今回の発言だった。

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2006年8月20日 (日)

都遊連健全化センターによる広告規制

東京都遊技場組合連合会、略して「都遊連」という団体がある。いわゆる東京都にあるパチンコ屋全体の、大きな組合のようなものだ。基本的に都内のパチンコ屋殆どが、この都遊連に加盟している(というと何かしら意図があるような感があるが、半ば自動的に名が連なるようになっている)。この中に「健全化センター」という組織があり、裏モノや遠隔操作などの不正営業防止に務めている。皆さんお察しの通り、警察OBの方々が多数在籍している言わば天下り先だ。

昨今やたら厄介になった、ホールの広告・宣伝方法の指導もこの「健全化センター」が行っている。今年五月に改正された風営法にそって、具体的にどのような宣伝をすべきか、こまごまとFAXで指示するのだ。吉宗がちょうど撤去される頃――7月24日のFAXは例えば、このようなものである。以下、引用だ。重要な語句だと思われる部分は太字にしておいた。

●インターネットを利用しての広告宣伝

………インターネットの普及に伴い、ホール業界もホームページやメールサービス等で広告宣伝が盛んに行われ、宣伝形態も多様になっています。この結果、ホームページ、メールサービス等で特定の客に高設定台の提供をし、客寄せするなど、違法な広告宣伝が散見されるようになり、健全化センターにも多数の情報が寄せられています。これは、ホール掲示ポスター、折込広告等と同様に、著しく射幸心をそそる行為にあたり、風適法第16条、及び条例第7条第7項に抵触しますので、絶対に行わないようお願いいたします。

●イベントコンサルタント会社を利用してのイベントについて

大規模なイベントは、全日遊連と都遊協のパチンコ・パチスロファン感謝デーのみが行政に認められております。ところが、これ以外にイベントコンサルタント会社主催で……(略・高額商品や海外旅行チケットなどをプレゼントにするような)……過激なイベントを行っている店舗が散見されます。この様なイベントは、主催がイベントコンサルタント会社であっても、ホール内あるいはホールの営業敷地内(駐車場を含む)で行うイベントに関しては、遊技場に責任が及びますので注意が必要です。イベントコンサルタント会社は、契約が欲しいがために「この位の景品を出しても警察が認めている」或いは「都遊協が認めている」など言葉巧みに勧誘してきますので、内容をよく吟味して、不審に思った場合には、健全化センターにお問い合わせください。(引用、終わり)

――やれやれ。つまるところ、「メールでの高設定発表」も「イベントコンサルタント会社によるイベント」も禁止されているのである。イベントコンサルタント会社、と言われてもピンとこないかもしれないが、例えば「でちゃう!」のキック・ザ・シックスなどその他もろもろだ。

かといってどの店も全て従っているわけではないのはご存知だろう。特にメールでの設定発表、今でもコソコソと続けている店舗もある。どうやら微妙に地域差があるようだ。警察や健全化センターも各店舗のメールやホームページをつぶさにチェックしているわけではないので、ホールとしても”まだ”具体的な注意がないからと何とか上手くやっていきたいのだろう。

この地域による販促の差はなぜ生まれるのかというと、言うなれば各所轄警察のヤル気による。都内ではこの健全化センターがチェックをし、射幸心をそそると判断が下された場合の処遇は管轄の警察が決定する。基本的にホールにとってはどちらも煩わしい存在だが、確かに健全化センターが各店舗の販促物を厳しくチェックしているようには思えないし、販促物によっての営業停止処分など殆ど聞いたことがない。ただ、「5月に改正された風営法に違反してしまうと、処罰があまりにも厳しすぎる」ためにホールはこれらの意向に逆らうまいと順じているのだ。

けれども例えば、管轄の警察署に署長やその他の役職者が新しく配属されるなど、なんだか検挙率を上げたいと躍起になるような事態(もしくは時期と言うべきか)になった場合――悲しいかな、パチンコ屋などの風俗店は一番の的にされがちなのだ。深夜のパトロールや飲酒検問などを行うよりも、ずっと違法者の検挙手順が楽なのだ。何より時間も人手もかからないと効率的なのである。事件はホールで起きているんじゃない、違う所で起きているんだと個人的には思うが、これもまた仕事とされるのだろう。

なんだかヤヤコシイ感が否めない。どうせ規制するならしっかり取り締まればいいのに、と半ば自暴自棄な気分にもなる。広告規制の全国的な統一感が生まれていれば、今回の「パチスロ攻略マガジン」のような出来事も起きなかっただろう。彼らの行動は余りにも無知で許されざるものだが、「ホールで告知しても大丈夫なのでは」と思わせる事由があったということだ。処罰は大変に恐ろしい風営法だが――業界外の人間には、早くも形骸化したもののように見えたのかもしれない。

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2006年8月15日 (火)

敗戦の日、靖国参拝

小泉首相が靖国神社に参拝したことでえらく騒がれているが、いつもいつもこの季節、ご苦労なことだ。自国の代表が何らかの姿勢を発しているので注目して当然だが、なぜ肩に力を入れたような、こわばったような、とても自然とは呼べない形で受け入れなければならないのだろう。

たとえA級戦犯と呼ばれる方々が祀られていようと(A級戦犯が祀られていることについては、個人的には違和感と仕方なさを覚えている。けれどもここでは特別重要でもないと考えるので書かない)、靖国は日本のために不慮の死を遂げた人々が多く眠る場所。黒船来航以来、おもに戦争で亡くなった方々が、遺体を持ち帰ることもできず墓も立てられない方々が多く眠っているのだ。彼らはどんな形であれこの日本のために尽くし、個人の生活を投げ打って命を賭した方々だ。一国の首相であろうと、あるいは現代を生きる若者であろうと、誰が参拝し安眠または平安を願おうと、誰に後ろ指など指される理由があるのだろうか。

中華人民共和国や朝鮮半島にある二国の意見、そんなものはどうでもいいのだ。どうでもいいという雑な考え方は本来好きではないが、彼らに信仰の邪魔をする権利などどこにあるだろう。多民族にしてなおかつ思想的に賛否両論のある共産主義国家である、中華人民共和国は日本を悪役にすることにより、人民の意思統一を図っていることは周知のとおりだ。また日中平和条約の際、戦争による賠償金を断りその分、毎年多額の援助金を求め支払われているのに「日本は戦後保障など一切しない」と人民に教え続ける厚顔さ。儒教の国がなぜこうも礼を知らぬのか、耳を疑うばかりである。大韓民国にいたっては、若者を始め親日的な意見が飛び交うと聞くが、いまだに反日精神にしがみつき政治運動をすることによって不毛な達成感を得る大人が多いらしい。反日を訴える政治家などは彼らの票を集めて当選しているらしいが、いやはや全く、戦後彼らに一体いくら払ったのか政治家ならば理解しているはずだ。北朝鮮などはもはや論外である。

戦後保障は既に完了した。もはや政治的に彼らに謝罪する必要などないのである。もちろん不思議なもので、金銭的もしくは経済的な行動のみで人間の感情は動かない。逆にそれが人間らしい泥臭さなのだが、これは友人関係の話でも身内の問題でもない。国家間のやりとりであって、万国共通の価値を持つ金銭によってスマートに解決すべき問題である。それでも相手方の人民が納得しないのであれば、それは日本ではなく相手政府の政治に問題があるのだ。国家間の、戦後処理はもう済んだはずなのだから。

もう彼らに後ろめたい気持ちになることなど、一切必要ない。そもそも靖国参拝と中国・朝鮮半島の意見が同列に報道されること自体、情けないのだ。私たちは自国の歴史を受け止め、しっかり前を向いて歩いていけるはずだ。それなのに、小泉首相の靖国参拝を聞くと、どこかで納得のいかない、自然体に見えない、違和感を覚えてしまう。

とにかく、彼の言動に問題がある。ここまで靖国参拝にこだわるのなら、なぜ昨年まで敗戦の日に参拝しなかったのだろう。昨年などは突然参拝していたが、賽銭を投げて柏手を打つのみの簡略さ。もともと日本の信仰は大らかなので、二礼二拍手ウンタラといった格式ばかりにこだわる必要もないと個人的には思うが、さすがに一国の首相である。国民の代表として、神聖を重んじるようなまともな参拝をして欲しい。そう、どうせ参拝するなら確固とした意志と、信仰の誇りが伝わるような姿勢であって欲しいのだ。首相やその他の政治家の参拝に異論はないが、このヤリ方はないだろうと少し憤慨を覚えてしまう。

様々な異論があるのは承知だが、元来、神社仏閣になぜ死んだ実在の人物を祀るのかというと「鎮魂」のためだという説がある。不慮の死を遂げた人物は必ず現世の人間を「祟る」と信じられていたため――たとえば天災や飢饉、また現政権を覆すような面倒事を起こしたり――そのような祟りを起こさぬよう安らかに眠っていただくため、祀るのである。政治の“政”を“まつりごと”と読むのはご存知のとおりだが、この読みの由来が“祀り”から来ているのではないか、とも言われている。とくに神社仏閣の建立が進んだ古代において、政治とは怨霊を鎮めるための、“まつり”と結びついていたというわけだ。

黒船来航以来、靖国神社に祀られているのは基本的に「政府軍」あるいはそれに準ずる者のみであって、中央政権により不慮の死を遂げたような例えば菅原道真のような人物は殆どいないが、この国のために亡くなった方に祈るのはなんだか古代の”まつりごと”に通じるものがあるような気がする。根拠は特別になく非常に感情的な話なので流してもらって構わないが、ただ中央政府によってであれ、外国との戦争によってであれ、亡くなり祀りの対象となった方々は皆、政治に関わったり徴兵されたり――日本のために何かしら尽くした方々であったことは共通していると思う。

あなた方が尽くした歴史があって今がある。どうぞ安らかに眠り私たちを見守りくださいと一言、祈ることに何の異論があろうか。外国への謝罪よりも、現在は先祖への感謝の念が必要なのではないだろうか。靖国に参拝するのもいい。もちろん、心の中で祈るだけでもいい。安らかに今は眠りたまえ、と敗戦の日に祈ることで、せめてもの鎮魂となってくれればいいのだ。

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2006年8月 9日 (水)

老人ホームの男性職員、性的暴行発言

そもそも親の世話など子供の仕事であって、他人に依拠してしまう行動自体あまり好ましくない。状況は人それぞれで、以前テレビCMにも流れたような「がんばりすぎない勇気」は必要だと思うものの、それでも年老いた親の世話は基本的に子供、もしくは子供が抱える家族皆で全うすべきだ。

たとえ親が認知症であろうと、身体が不自由だろうと、子供は常にそばにいなければならない。自分の親の意志がハッキリせず、まるで0歳の子供のような頼りない行動ばかりとることに失意を覚えるかもしれない。そんな現実を出来ることなら見たくはないかもしれない。また家族それぞれが抱える個人的な状況云々によって、いわゆる介護は続けていけないかもしれない。

けれども、それは子供として受け止めねばならぬ現実であるし、責務でもある。その姿を自分の子供に見せることもまた、情操教育に繋がるのではないかとも思う。親にできる、最後の孝行を放棄することなど、あってはならない。またそのような無慈悲な姿を、後の世代に伝えるべきではない。

もちろん老人ホームに世話になること自体を否定するつもりもない。身体の元気な老人にとっては、同年代の友人を見つけるチャンスでもあるし、あるいは身内の世話になることを心苦しいと感じる方もいる。最初に提示した通りまさに状況は様々なのだが、仕事だの子供の受験だの、自分の時間だのと、利己的な事情で親の世話をしない連中がやたらと目につく気がしてならないのだ。自らが仕事で多忙ならば、家族の協力を仰ぐのが筋だ。完全な対処ができなくとも、努力はするべきなのだ。

私が老人ホームと聞くとイヤな気分になってしまうのはこのような理由による。祖父や祖母が倒れたとき、必死で介護し続ける両親を見て私は育った。もちろん両親だけではなく、その兄弟(私にとっては叔父・叔母にあたる)たちも同様だったし、学生だった私やイトコ達も放課後はできるだけのことをした。父は「子供の責任だからね」が口癖になっていて、今思うとやはり衰弱した親を直視するのがいたたまれなかったのだろうが、それでも立派に務めたと思う。

私も今は自分の両親と離れた土地に暮らしているが、万が一のことがあればすぐに飛んで帰ろうと思っている。それは旦那にも常々話していることだ。絶対に――親が強いて望まない限り――老人ホームなどには入れない。

……前置きが長くなってしまったが、ますます老人ホームの世話になりたくない気持ちを強くさせる事件が最近、起こった。ニュースなどでご覧になった方もおられるだろう。

東京都東大和市にある「さくら苑」という特別養護老人ホームの職員2人(21歳・30歳)が、90歳の女性入所者に対し、性的暴行発言をしていたというのだ(詳しくはコチラ)。介護内容を不振に感じていた家族がテープで隠し取りし、発覚した。

テレビでそのテープを聴いたのだが、その内容の酷さたるや、耳を塞いでしまいたくなる。オシメを取り替える際、身体や汚物の臭いが耐えられないだとか、やってられないだとか、女性の目の前で軽々と言ってのけ、その上しまいには「あれ? 今日はヤってくれないのかな? この間はヤってくれたよ。アハハハハ」……。

家族はこのテープをNPOに預け、「真相の究明をしっかりしてほしい」とコメントを発表。NPOなどに預けず、しかるべき法的手段に出るべきだと個人的には思うが、それは家族の意思なので仕方がないし私が言うべきことでもないので特別触れない。

そしてこの事件を耳にした「さくら苑」の苑長・玉川桜子は「ただただ悲しい思いです」と涙ながらにテレビ番組のインタビューに答えている。そして発言した30歳の職員は7日間、21歳の職員は5日間の自宅謹慎を命じた。

……これは、どういうことか。

というのは、これら男性職員は厳重に処罰されるべきだし、そもそも責任者たる玉川桜子本人も泣き言を述べている場合ではないのだ。刑事告訴こそされていないものの、社会的制裁を与えるのは会社としての責任である。悲しむのもいいが、そのような私的な感情よりも責任者として今後どのような方針をとるのか、明確にするべきだ。

またこの男性社員らに自宅謹慎を与えるなど、彼らにとっては休み以外の何物でもない。介護の現場は非常に疲れると聞くし、絶好の休日なのではないだろうか。そして、今後ごく普通に現場復帰させるなど…会社側の想像力欠如、社会的意識の薄さを露呈する処罰である。

熟考して頂きたい。彼らの行ったことは、性的暴行発言なのである。相手が認知症であることをいいことに、非人道的な発言もしくは行動をとったのだ(テープの内容から、行動があったことは予想できないだろうか?)。立派な犯罪であり、被害届が提出されていたら間違いなく取調べ、もしくは御用となるだろう。そして何といっても追及されるべきは、彼らの性に対する軽々しさだ。職務に就いているときですら、いとも簡単にそして乱暴に性の壁を乗り越えてしまう。どれだけ危険な人間か、会社側は判断できないのだろうか。

彼らのような、性に対して配慮のない人間が性犯罪を起こす可能性は高いのだ。社会は彼らにその罪の重さを認識させなければならない。仮にも社会福祉法人に属する団体がこれらを判断できないとは…全く、理性ある大人はいないものかと嘆きたくなってしまう。

介護の現場が厳しい状況であるから、ストレスがたまるから、人手が足りないから…なんだかニュースではそのような介護の状況を伝えてもいるが、それはまた別の問題で、だからといって何をしていいなどと子供の論理でも成立しない。処罰されるべき、非人道的な人間が社会的立場を保っていることが問題なのである。

責任の所在を明確にできる論理的思考能力に欠けた人間がどうも多いようだ。誰も彼もそんな鋭い人間になる必要もないだろうが、社会の場、とりわけ何らかの責任者には必要な判断力だろう。一体何が法人だよと、苛立ちを隠せないニュースだ。

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2006年7月22日 (土)

素晴らしき原則の人

「私は 或る時に、A級が合祀されその上 松岡、白取までもが、
 筑波は慎重に対処してくれたと聞いたが
 松平の子の今の宮司がどう考えたのか 易々と
 松平は 平和に強い考があったと思うのに 親の心子知らずと思っている
 だから 私あれ以来参拝していない それが私の心だ」

話題の昭和天皇メモ、非常に興味深い。靖国神社にいわゆるA級戦犯と呼ばれている人々が合祀されていることに、昭和天皇自身が不快感を示した貴重なメモである。

松岡とは国際連盟脱退や、日独伊三国軍事同盟の締結などで知られる松岡洋右元外相であり、白取とは白鳥敏夫元イタリア駐在大使を指す。また筑波は、筑波藤麿元靖国神社宮司であり、彼は66年に旧厚生省からA級戦犯の祭神名票を受け取りながら合祀しなかった。松平とは終戦直後の宮内相、亡き松平慶民氏であり、その子は彼の長男である松平永芳氏である。永芳氏は、78年10月にA級戦犯を合祀した当時の靖国神社宮司だ。ちなみに昭和天皇が、松岡外相や白鳥大使をあまり好ましく思っていなかったことは有名な話である。

これは亡き宮内庁長官、富田朝彦氏の手帳に残されたメモ。富田氏は74年に宮内庁次長に就任し、88年6月に退官するまでの間、昭和天皇とのやりとりを日記や手帳に残していた。これはその一例であり、昭和天皇自身の筆ではないにせよ、メモそのものには「昭和天皇の発言をその場で書き付けたような、臨場感がある」と非常に信憑性の高いものだと判断されている。確かにひどく直截的で、それだけリアリティーを感じる。

天皇に側近く仕えた者は、天皇の言葉や表情に直接触れる機会が多いので、本人や遺族がその気になればこういった類のものはもっと出てくるだろう。ただこれまでは社会的影響が大きいため殆ど公表することなく、墓の下まで持っていくというのが言ってみれば仕えた者とその家族の節度、もしくは礼儀だった。しかしこの時期に、このようなメモが出てきたことにある種の意図が感じられないこともない。

ともあれ、A級戦犯の合祀・分祀問題に今後影響を及ぼすのは間違いないだろう。ただしこれは、あくまでも合祀問題に言及した内容であり、首相参拝の是非を説いたものではない。言いたいことは何でも言う、軽はずみな小泉純一郎首相に早く引退して欲しいものだが、彼が「首相参拝には影響しない」と発言するのは理解できる。

それにしても昭和天皇はなんて原則の人なのだろうと感心させられる。戦犯合祀問題はこれまでも多く語られてきたが、その論旨の大半は「戦犯であろうと国のために尽くした功績があるので合祀したい」あるいは、「アジアの平和に貢献するためには分祀したほうがよい」「天皇や首相が参拝しやすくなるためにもぜひ分祀を」といった内容だった。

確かにA級戦犯だろうと、B・C級戦犯だろうと、普通の兵士だろうと、皆国のために尽くしたのは紛れもない事実だ。それぞれの思いを抱えながら、日本のために力を尽くしたのだ。戦争に勝てばよかったし、勝てば全てが報われた。だが、負けてしまった。敗戦を迎えたのならば、気の毒ではあるがその責任を当時の指導者は取らねばならない。文明国であるならば、それは当然の流れである。

本来はその指導者責任を、日本国の法廷と法理で裁ければよかった。しかし敗戦国にそのような土台は持ち得ず、またアメリカGHQの民主化政策により到底無理であった。必ずしも正当な手続きではないという、一種の不安や胡散臭さを感じながらも東京裁判がそれに代わるものとして位置づけられ、連合国の思想と法理に基づき裁かれることになってしまった。ちなみにこの状況は現在のイラクと同じである。

戦後の日本人が、A級戦犯だとか戦争犯罪者、戦争責任といった言葉をいまいち上手く使いこなせないのは全てここに起因する。指導者責任を追及するのは敗戦国国民の原則であるが、そのやり方があまりに懐疑的であった。屈辱や違和感を覚えながらの裁きに納得しきれないものが、心のどこかにこびりついているのかもしれない。敗戦とは、どれだけのリスクを背負わねばならないのだろう。当時の歴史をすんなりと受け入れ、日本人として明確な意思を述べる言動を六十年経った現在に至るまで曖昧にしてしまう。

しかし昭和天皇の「A級戦犯分祀意思」は、このような迷いや曖昧さを全て払拭した内容である。昭和天皇は懐疑的な東京裁判により裁かれた結果であろうと、何にせよ彼らの指導者責任は追及されるべきで、敗戦という辛酸を国民に舐めさせた彼らが他の兵士と同じ靖国で眠るべきではないと意思表示しているのだろう。もちろん当時の指導者それぞれが力を尽くしたことは、昭和天皇ご自身がよく知っている。だが、だからといって、敗戦の責任が消失するわけではない。それは死しても変わらぬというわけである。

また朝鮮半島や中国など、アジアとの兼ね合いもある。戦後、昭和天皇は「アジア各国との和平関係は必要不可欠である」とし、幾度もそれらを訪問している。どんな大儀があったにせよ、結果としてアジアを戦火の海に巻き込んだ戦犯を靖国に祀ってしまっては、今後の関係に響くことは明白であり、事実でもある。指導者責任を追求するのであれば、魂になってもアジアの平和に尽くせということだろうか。

もちろん、指導者責任の追求という論理にのっとると、昭和天皇の退位問題がある。昭和天皇ご自身も退位を考えたようだし、天皇制そのものの廃止も想定したらしい。だが、当時の幣原喜重郎首相らを始めとする政治家・官僚、またGHQ最高司令官マッカーサーなどの意思により、人間宣言をするのみに留まった。これに関する明確なコメントは残されていないが、昭和天皇にまつわる書籍などを読むと、「国民を敗戦に追い込んだ、敗戦国の天皇というレッテルを背負い、その上で任務を全うしていく」ことが天皇ご自身なりの課題となったということだ。戦後の昭和天皇による外交功績はここでは省くが十分な結果を生んだはずだと私は考えている。指導者責任としては退位すべきであったが、在位し続けたことにより、得るものは大きく戦後の責任を果たしたと言っても過言ではないだろう。

たとえどのような状況であろうと、指導者たるもの、何かしらの敗戦の責任を追わねばならない。シンプルだが筋の通った当然の内容である。昨今の靖国合祀問題に一石を投じる意思だ。

個人的には東条英機を始めとする、A級戦犯と呼ばれ連合国の論理で裁かれた方々を気の毒に思う。できることなら、当時全力を尽くした英霊として靖国で眠らせてあげたい。しかしそれはあくまで、情の問題であって、主権を持つ日本国民として政治的かつ論理的な意見ではないのだ。政治問題を感情的に片付けてはならない。昭和天皇のご意思は、この原則を思い出させてくれる貴重な内容であった。

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2006年7月 2日 (日)

カジノが現実になる日

先月20日、自民党・観光特別委員会などにより、カジノ合法化に向けての基本方針がまとまった。以下にまとめておいたが、さらなる詳細はコチラをご覧になっていただきたい。

①2011年にはカジノ実現へ…アメリカのラスベガスをモデルとした、ホテルやシアターなども融合した巨大施設を「カジノ・エンターテインメント」と呼び、2011年には建設したいということだ。国内最大設置数は10ヶ所となっているが、最初に2~3ヶ所設置し様子を見たところでその後を決定していく方針ようである。地方公共団体の管理下に置かれ、カジノ法の責任や運営にあたる地方公共団体の決定は主務大臣に任される。

②未成年者・学生・暴力団関係者・前科のある人間・ギャンブル依存症患者の入場禁止…しごく当然の内容なのだが、一体どのように依存症患者と見分けるのか不思議なところだ。あくまで楽しい雰囲気を味わう場であることを強調したいのだろうか。

③ギャンブルの種類…さすがカジノというだけあって、多数用意されるようだ。カジノ、という単体の言葉を「さいころ、トランプなどの器具や、ルーレット、テーブル、電子式機械などの機材・機械などを用いて偶然の結果としてのゲームに金銭などを賭する行為を提供する業」と規定している。ベガスをモデルにしているということから考えても、この電子式機械はスロットマシンを指しているのだろう。お馴染みの目押しで「7」を揃えるスロットとは異なるが、一撃の破壊力は計り知れない。違和感は禁じえないものの、楽しみではある。

④おもな目的…長々と記載されているのでものすごく簡潔にまとめてしまうと、違法カジノの削減、観光客の多様なニーズに応える、地域振興、の三つである。誰もが安全に楽しめる場を作ることにより、暴力団などが深く関わっているような違法カジノの利用を減らし、ゆくゆくは違法カジノそのものをゼロにしたいということだろう。観光客、というのは主に外国人が対象となっており、他国同様日本でもギャンブルという遊技でくつろいでもらいたいということだろうか。どちらにしても夢物語で、果たしてそう上手くいくものなのかつい懐疑的になってしまう。そもそも違法カジノを削減したいのであれば、警察が仕事を全うすればよいし、また国営のカジノが必要なほど、日本が外国人に味わってもらう文化、施設その他の場所はないものかと悲しくなってしまう。

ただ「地域振興」に関してはそれなりの効果が予測できる。客の金が入るのだから当たり前なのだ。財源の苦しい地域を助ける結果となるのなら、それに越したことはないし、ぜひそうあって欲しいと願う。だがおそらくそうはなるまい。カジノ建設地域を決定するのは主務大臣とやらで、建設を希望する地域は主務大臣に願い出なければならないのだ。主務大臣はどの地域が良いかあらゆる観点から選別するわけだが、どのように決定されるかはもう想像できるだろう。おそらく本当に苦しい地域を助ける結果にはなるまい。

しかし、国家の財源となるのは間違いない話で、一番の目的はもちろんこれである。現在の日本は国民一人当たり約700万円の借金を背負っている状況らしい。とはいえ、この赤字は税金や年金など本来納めるべきものが回収できていないからで、他国に大きな負債を抱えているわけではない。特に会社が税法の網をかいくぐっていることから生み出された赤字なので、国内にカネはあるのだ。わかりやすくいうと、団体や個人それぞれが貯金を国家に預ければ、国家の赤字は一掃できるというわけだ。この状況を変えるために、都内では少しずつ税法や決算方式を厳しくしつつあるが、それではラチがあかない。その上、パチンコ業界に多額の金が流れ、ひいては北朝鮮にわたっているのだから悩みどころだ。パチンコ業界に流れる金は基本的に個人のサイフから出た金なのである。ようやくと言うべきか、当然のことながらと言うべきか、さすがに日本もここに目をつけたのだろう。

賭博場を作る目的なんて基本的に儲けたいだけなのだが、基本方針に記載された言い訳の長いこと。大人の建て前とやらを勉強させてもらった気分だ。個人的にギャンブルそのものは好きだし、カジノならば自らレートを決めることができるので、より楽しく遊べると期待はしている。しかし万が一、バブル期に無駄にできた施設のような始末となれば、みんなで国会議事堂に火をつけてもいいと思う。あ、これ共謀罪か(笑)。

ちなみにカジノ建設とパチンコ業界の関係については後日書こうと思っている。長くなってしまったし、もうすぐW杯ブラジル対フランスが始まるのでここで筆を置きたい。

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2006年6月23日 (金)

米国牛肉輸入再開

今日はW杯ブラジル戦もあるし、それに合わせて家事も早めにしないといけないから簡潔にまとめておこうと思う。ちなみに、なぜ家事を夜にするのかというと、基本的に旦那は閉店後に仕事をしているために、私も夜行性になってしまったわけで、決して昼間にスロットを打ったり買い物したりとダラダラ遊んでいるからではない…はず。

さて、米国産牛肉が今年の八月末までに輸入解禁となるらしいが、日本の消費者は「早く食べたい」「早く輸入してくれないと仕事にならないから」と輸入再開を喜ぶ者もいれば、「まだ怖いよ」と危ぶむ声もあったりと、賛否両論、悲喜こもごも。アメリカさんは日本が輸入禁止にしたせいで年間160億円の赤字に悩んでいたから、輸入解禁にバンザイ三唱といったところなのだが…。

そんなアメリカさんの全米肉牛生産者協会(NCBA)がこんな声明を発表した。

「日本は信頼できない相手国だ」

発言したのは前述の団体のジョン会長。輸入解禁の契約は結ばれたものの、前回のようにまたすぐにストップがかけられるのではないかと危ぶんでの発言だったようだが。

いや、ちょっと待て。スウゥゥ~(息を吸い込む音)。

信頼できないのはそっちだから。

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2006年6月21日 (水)

山口母子殺人事件

今回、山口県母子殺害事件で最高裁が広島高裁の判決「無期懲役」を棄却した。母親を暴行、殺害し、いまだ乳幼児である子供を絞殺した犯人は極刑に値するだろうし、最高裁も司法のプロとして判決を下したわけで、一国民としてもひとまず安心した。

昨日の朝に至るまで、この事件に関するメディアの報道には目に余るものがあった。もともとテレビなんてものはワールドカップがなければ見向きもしないのだが、こんなにも報道は無知なのかと反吐が出る思いですぐに消してしまった。

今回の判決にあたってメディアが投げかけた疑問は、「少年犯罪に死刑は適用されるのか」というものだったわけだが、これもおかしな話なのである。というのは、事件当初犯人は18歳で、十分死刑が適用される年齢なのだ。つまりはなんてことのない、「死刑制度は善か非か」といったお決まりの内容なのである。

しかし、死刑という人が人を裁き殺すような制度は果たして「善」なのであろうかと、どんなに疑問を抱こうと、また死刑制度に反対し徒党を組んでも、あるいは廃止しようと国会議員になって努力していようと、現行の法律で極刑とされているのは「死刑」なのだ。現代に生きる我々は、現代の法律にのっとり裁かれるのが、誰もが知る基本的なルールである。司法はその法律にのっとり、曇りなき視点で裁きを与えるのがプロとしての仕事であり、それができないのは法律者としての怠慢以外何物でもないのだ。極刑に値する犯罪者に極刑を科さないことも同様である。

死刑制度に一言物申したいのならば、まずこの筋を押さえねばならないのに、メディアの投げっぱなしの姿勢ときたら、まったく不愉快だ。批判精神とやらにのっとり、何でも疑問をぶつけていこうとすることは本来間違ってはいないが、批判精神は確かな論理があってこそ生きる。そんな基本的なことも忘れ、国民の知性と欲求を満たすべく存在しているはずが、ただの盛り上げ役に成り下がっているのだ。まさに一億総白痴状態を作ろうとしているのだろうか。非常に気持ちが悪い。

ちなみに私個人は死刑制度は大賛成で、もちろん状況によりけりだが、それに値する罪を犯した人間は、容赦なく死刑により裁かれるべきだと考えている。外国では既に死刑制度を廃止している国が多いと、のべつなくまくしたてる評論家や国会議員が目に付いたが、だから何なのだろう。外国とは宗教観も違うし、そもそも犯罪は増えたと言えど、日本全国の治安の良さは世界に誇ったっていい。その根底に死刑制度があるというのは、考えすぎだろうか。あるいは死刑に代わる、犯罪者を一生閉じ込め苦しめるような完全な刑罰があればよいが、現在のところそれが皆無に近い状況なのだ。犯罪者はどんなに反省しようと犯罪者で、犯した罪によって徹底的に罰を受けねばならない。それが強姦や気狂いじみた殺人なら、なおさらである。

今回の事件で原告となった本村洋さんは言う。「自分の命を取られることを初めて実感したときに、自分の犯した罪の重さを知る。それこそ死刑という刑罰の意味だと思う」と死刑の意味を位置づけ、「二人も殺したのだから反省するのは当然で、そのような人間らしい気持ちを取り戻した上で、『死刑』という罰を受けて欲しい」と。もちろん、彼と私の死刑に対する考え方が根底で同じかどうかはわからないし、当事者の彼に色々言及するのは憚られるのだが、それでも非常に筋の通った素晴らしい言葉だと思うし、刑罰に対するまともな捉え方としてこれ以上、ない。

またさらに彼は続ける。「悔い改めてもなお、命を落とさなければ償えない罪がある。その残酷さを知って、犯罪が起こらぬようにする方法を社会は考えなければならない」愛する人を失った悲しみが、このような言葉で昇華されたことに、思わず脱帽してしまう。一体どのような心境なのか、思いを馳せることしか出来ないが、彼のような方が泣く羽目にならない社会づくりを心がけたいものだ。

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2006年6月16日 (金)

パチンコ議員、勝訴確定

平沢勝栄衆院議員は三年に渡り、週刊新潮と争っていたことを皆さんご存知だろうか。もちろん各メディアで報道されていたので、既にご存知の方の方が多いだろうが、当ブログでも少し取り上げておきたい。

コトの始まりは2003年11月27日号の「週刊新潮」。ジャーナリストの上杉氏が、綿密な取材のもとに「平沢勝栄衆院議員が某パチンコ屋より、4000万円もの献金を受けた」という記事を掲載した。これを受けて、平沢議員は「名誉毀損である」とし週刊新潮を告訴。以後約3年に渡り、裁判が行われていた。

パチンコ屋の経営陣は基本的に、在日コリアン、つまり他国籍の外国人である。日本が誇る有名無実な法律の一つである、「政治資金規正法」では外国人が政治家にいわゆる投資することは禁じられているのだ。平沢議員がパチンコ屋より献金を受けたことが事実ならば、この法律にのっとり罰せられるわけであるし、そんな疑いをかけられた本人はまさに崖っぷち、「名誉毀損だ」と訴えるしかないのである。

そうして平沢議員は週刊新潮に一億円の損害賠償を請求した。創価学会とのトラブルなど、いつも忙しい週刊新潮だが、一審の東京地裁では平沢議員の敗訴となる。裁判長は「取材経過に関する筆者らの供述は具体的で真に迫る。記事は風聞の類を集めたものではない。真実と信じるに相当の理由がある」と判決を下した。つまり東京地裁では、「この記事は風聞の類(=ウワサ話)を集めたものではない」イコール「この記事はほぼ事実が書かれたものだ」と受け取ったわけで、平沢議員はパチンコ店より献金を受けたことが事実とされたのだ。

しかしそこで腹がおさまらないのが人間である。平沢議員はさらに東京高裁まで持ち込み、そこでなんと逆転勝訴する。新潮社が取材源を特定しなかったことなどにより、東京高裁では「どのような取材によって記事内容を真実だと判断したのかが明らかではなく、合理的根拠に基づいていることを裏付ける証拠がない」と判断され、新潮社が平沢議員に三百万の損害賠償を払うよう判決された。しかし、それでも裁判長は問題の記事を「具体的かつ迫真性に満ちたもので、相当程度の情報源からの取材に基づくものだとうかがわせる」と判決文で評価している点が面白い。

二審で負けた新潮社は、最後に最高裁までこの問題を持ち込んだ。ここまで記事が評価されていたのだから、勝訴する自信はあったのかもしれない。

しかし、6月15日に裁判長より下されたのは、新潮社側の上告を棄却する判決だった。つまり、平沢議員の勝訴が確定したのである。東京高裁での判決が有効とされ、新潮社より平沢議員に三百万の賠償金が支払われることになった。ちなみに議員は「謝罪文掲載」まで求めていたのだが、そちらは却下されている。

残念なことに、献金を暴いた(かもしれない)会社が、罰せられる対象であった人間に金を支払う結果となってしまった。そもそも平沢議員は「パチンコ業界より献金されている」と非常にウワサされている人物であったし、記事そのものの信憑性の高さを裁判長は認めているのだ。

それなのになぜこのような判決が下ってしまったのか。新潮社側があくまで取材元を明かさなかったため、東京高裁で「どのような取材によって記事内容を真実だと判断したのかが明らかではなく、合理的根拠に基づいていることを裏付ける証拠がない」と致命的な指摘を受けてしまったことが大きな要因だ。しかし、取材源を秘匿することもまた、民主主義的な人権擁護問題などに絡む、重要な行動であるから何とも言えない。非常に惜しいのである、新潮社。

もちろんこの他、オトナの事情とやらも絡んでの判決だったのかもしれない。パチンコ業界からの献金疑惑は、多くの政治家にかけら