2007年3月17日 (土)

花より男子が終わりました。

ちょいと照れくさくってみっともない話を書くが、ウチの旦那はああ見えて――図体は人一倍デカくて大食いで、頭はアステカと食いタンドラ1でしかできていない、つまり腕っ節だけよさそうなアホなんだけれど、甘えん坊である。未だにオーストリアとオーストラリアの区別もおぼつかず、「新陳代謝」が「●ん●ん男爵」(一部自粛)に聞こえてタマラナイという、涙が出るぐらいのアホなのだけれど――甘ったれで、素直で可愛いヤツなのである。

昼も夜もいつも不定期な時間に働いて、社長である義母にどやされることもあれば、仕事のデキそうな若手社員に「な、何やってんスか」とツっ込まれ、愉しみの設定打ちも低設定が噴いたり高設定が不発だったりとマシンの気まぐれに頭を抱え、オーナー同士のお付き合いに参加してみれば"在日話"でウンザリし、コンビニでちょっとタバコを買おうと車を止めたら一瞬で駐禁をくらい……それはそれは、日々お疲れで帰宅する。

とは言え、旦那はあまり仕事の多くを私に話さない。仕事に関して話すことは、今日は赤だったよとか、営業が来たよとか、そんな大まかな出来事ぐらいで、例えば「ナニがどうしてとってもダルい」といった愚痴を具体的に言うことはない。この辺、私とは全く違う。私たちがまだ彼氏彼女の関係であった頃、当然私は働いていたわけだけれど――「ったくもー、タナカ(当時の上司)が下ネタばっか言ってウザいの!!」なんて生ビールを飲みながら、私はよく旦那にこぼしていた。その頃から旦那は、会社や人物に焦点を絞って、いかに自分がイヤな思いをしたかこと細かく相手に説明することはなく、愚痴らしい愚痴を口にすることはなかった。せいぜい「昨日は入替が朝まで長引いてダルい」ってなぐらいだった。

今でもそうなのだけれど、まぁ旦那が一体どういったモノが嫌いで疲れるか、今日はイヤなことがあったのかぐらいは、なんとなく顔色だとか表情だとか口調で想像がつく。それに私も言われないことは特に聞かない性質でもあるし、むしろ私が旦那に自身の今日一日を話したくなってしまうので、自分から旦那のそれを訊ねることはない。

旦那は疲れたり憂鬱な気分を味わったりすることが日々色々あるのだろうけれど、決してそれらを言葉にすることなく自分の中に留めて――こう書いてみると、いかに頭が悪かろうと殊勝な男のようだし、まぁ実際そうでもあると言えなくもないかな、なんて我ながら思うのだけれど――それでもやっぱり、甘ったれの小僧なのだ。

「ねぇねぇ」帰宅して一息つくと、毎日必ず、絶対に旦那は言う。「頭ナデナデして」

毎日必ず、昼夜問わず、帰宅して靴下を脱いでお茶かビールを飲んだら絶対に、じっと小動物のようなひたむきな視線でもって「頭ナデナデ」をせがむのだ。

「あんたの頭、重いからヤダ」なんつっても、日々働いてくれている旦那に労わりの気持ちがないわけじゃない。ソファーにもたれた私の膝に置かれた、重いくせにカラッポの頭を撫でる。パチンコ屋の澱んだ空気を浴びてきた旦那の髪は、整髪料と入り混じってとてもベタベタしているし、ただでさえ彼は脂性なのだ。額の生え際のあたりなんて、妙にしっとりテカっていてとても触れたモノじゃないのだけれど――まぁしょうがない。実家の愛犬の毛づくろいをするように掻いたり撫でたりしながら、私はボケっと視線をテレビに向けてビールを飲む。時折、「また人が殺されちゃったよ」とか「深夜放送って最近つまんないね」なんて話しかけると、「そだね」「ホント、そだね」とぽつぽつ返事が返ってきて――しばらくすると返事はなくなり、下を向けば寝息を立てている旦那がいるわけで――本当に甘えん坊だ。

毎日のことなので、つまるところ、日課だった。

ところが、もうなんだか、ここ何日間はどうしても、どうしても、私ってば――思うところがあって、「頭ナデナデ」をする気分になれなかった。別に旦那と喧嘩をしたとか、気に入らないことがあったとか、もちろん彼に対する有難い思いがなくなったわけではなくて、その辺はいつも通りなのだけれど、どうしてもこみ上げてくる新たな思いが、「頭ナデナデ」を拒否してしまうのだ。

「頭ナデナデして」――旦那はいつものように、おねだりしてくるのだけれど。

「ねぇ」

「ん?」

「頭ナデナデをしたくないわけじゃないんだけどさ」

「うん?」

「アンタの頭ナデながら、この間、ふと思っちゃったんだよね。『このまま撫で続けたら松本潤くんか、小栗旬になればいいのに』って」

「えっ…」何それ、と言わんばかりに旦那は目を丸くする。

「土曜日に花より男子の総集編みたいなのやってたでしょ? あれ観てたら、もう、たまんなくなっちゃったよ。あの二人、やっぱ良いわ。『ごくせん』の頃もよかったけど、花より男子でも眩しすぎる。っていうか、カッコよすぎ。やばい。しかもカワイイ」

「………」絶句する旦那。

「ねぇ、なんでアンタは松本潤じゃないの? 小栗旬じゃないの?」

「……そ、そう言われても……その……」

「あたしゃ悲しいよ」

私は本当にこのとき、それはそれはもう深々と溜息をついた。以前にもブログで、松本潤・小栗旬の両者がなんだかとても可愛らしくってしょうがない、若い人たちが恋愛にひたむきになる姿っていいもんだなぁ、と書いたけれども、総集編を観てどっぷり浸かってしまった今、"いいもんだなぁ"から"カッコいい"に気持ちが豹変してしまったのだ。

「この脂っこい頭を撫でてるうちに、松本潤に変わればいいのに…」――私はしみじみと、そんな気持ちになっていた。

「え、でもさ、その…」旦那は申し訳なさそうに言う。「俺だって、よく見れば、松本潤とまでは言わないけど、小栗旬ぐらいには似てるように見えてくるんじゃないかな…」

「小栗旬、ぐらい? はぁ? ぐらい、ってナニよ。アンタ、ナニ言っちゃってるの?」

「いや、その」

「小栗旬ぐらいって言うならね、さっさと小栗旬になりなさいよ! バカ!!」

最後の「バカ!!」が効いたのか、旦那は必死に言い返す。

「なんなんだよぉ。そりゃ俺も小栗旬好きだよ。『ごくせん』の小栗旬は特にサイコーだったよ。カッコいいと思ったよ。でも花より男子の小栗旬なんて、ただの、ヨン様ルックしてるだけじゃん!!」

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……そうかも。

い、いや、それでも。

「そんなの関係ないの、どうでもいいの!! とにかく私は悲しいんだから、放っておいて!!」

「ナニが悲しいんだよ…」

「アンタの全て!!」

……なんて入れ込んじゃって、旦那は二日ほど「頭ナデナデ」のおあずけをくらったのだ。いやー、申し訳ない。その後はどうしてもナデて欲しいのか、一個千円もするスィートポテトや長蛇の列ができる鯛焼きであるとか、手土産を携えて帰宅するようになった。

「なんか、近頃、ハードル高いよ…」ポツリと旦那は呟いていた。

そんな花より男子も最終回を迎え、これまでドラマを逐一チェックしていなかった私も夜十時にはテレビに噛りついていた。ヒーロー・道明寺司くんの野性的なガキ臭さを見事に体現している松本潤くんがステキだったのはもちろん、なんだかこう、心の一番キレイで純なところをやたら刺激してくるストーリー展開で、気持ちがやたらと上向きに、明るくなる。こういうのを若返った気分になる、というのかもしれない。原作とは異なる展開に、「あれれ?」と首を傾げてしまうこともあったけれど、それはそれでハラハラドキドキできた。そして何より、このドラマって――出演されている方々を始め、製作者側の楽しさが伝わってくるのだ。もちろん実際の現場を見ているわけでもなんでもないのでただの想像なのだけれど、なんとなく製作者側のチームワークの良さを彷彿とさせるし、ドラマのホームページを覗いても丁寧に作りこまれていて、作品への愛情や愛着を感じさせられてよかった。製作者側のテンションって、意外と視聴者にも伝わるものなんだろう。

あぁ、終わっちゃったな。もう観られないんだな――とほほ。ちょっと寂しいけれど、現実に戻って、また旦那の頭でもナデるか…。

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2007年3月 6日 (火)

今更だけれどGTOの話

おそらく来週あたりだろうか、もうすぐパチスロ「GTO」がいよいよ発売される。バーチャルリールなので小役取りこぼしはナシ、つまるところこれといって小難しい技術介入性は全くナシ、それでいて高設定の初当たり確率も機械割もまぁまぁ…なんてわけで、それなりにホール側のウケはいい。まぁ、どちらかと言えば、あの展示会で発表された数機種のうち――魁!男塾や名探偵ホームズ、Dynamite!!など――の中で、どれを導入するか消去法で考えてみるとGTOと男塾が残る、といった消極的な見地でウケがいい。

もちろんだからといって、つまらない不出来なマシンでは決してないし、RTも技術介入もないシンプルなゲーム性はやっぱり判りやすくて単純でいい、という方もおられるだろうし――それに、スロットそのものに対して消極的な言い方になってしまうのだけれど、それでも敢えて言ってみると、5号機なのだから仕方がない。例えば出玉性能もゲーム性も演出も出目も、全ての出来がよろしくって大多数のユーザーに受け入れられる……なんてマシンはそうそう出現するものでもないし、その上で5号機規制はやっぱり厳しいものだから、どうしたって「何かが欠けた」仕様になってしまうだろう。

それにあれこれ新機種情報をチェックして省みたのだけれど、よくよく考えてみればここ最近、ムダな機種は滅多に発表されていない感がある。単純にタイアップの版権のみに力を注いだものだとか(個人的にDynamite!はコレに属すると思うのだけれど)、パチンコの時短のようにRTがただのオマケのようになっている機種だとか、あまり目につかない。どの機種も初当たり確率を甘くしてみたり、あるいはRTに連チャン性を持たせてみたりとそれなりの工夫が見られる。果たしてユーザーにどれほど受け入れられるか結果が分からない、ないしは微妙だとしても、明らかに以前よりはユーザーのウケが考慮されたマシンが輩出されているような気がする。これって、とっても良いことなんじゃないだろうか。

とはいえ、私自身はかれこれ一ヶ月ほどパチンコ屋へ足を運んでいないのだけれど――まぁそれでもどんな機種が発表されるのかやっぱり気になるし、スロット・GTOが発売されるということで原作を読んでしまうぐらいだ。

……って、こりゃちょっと話の進め方が強引だし、漫画・GTOを読んだのも二週間以上も前のことでとりわけフレッシュな話題ではないのだけれども、つらつらと感じたところを書いておきたいなぁと、まぁそんなわけだ。

当時の少年マガジンを盛り上げた、言わずと知れた人気漫画ということであらすじの説明はいらないだろう。元暴走族の鬼塚さんが教師になって、担任クラスの問題児たちとすったもんだするお話である。

確かに漫画として画が上手であるとか、コマ割が絶妙であるとか、そういったテクニックは大変甚だ微妙で、例えば女生徒の顔の書き分けであるとか、とある1コマに注目させようとしてやたらめったら「!?」という"記号"に頼る描き方であるとか――本来、漫画は画そのものが記号の筈であるというのに――そういった部分で苛立たないわけではない。それでも、先生も生徒もどのキャラもきちんと存在感があって、普通であれば必ず一人は嫌いなキャラが出てくるところなのだけれど、なんだか誰もニクめないし、一つの話題が終結に向うと共に、もう一つの話題で読者をソソるストーリー展開は週刊誌漫画としてよく出来ていると思う。それに鬼塚くんがクサいセリフを吐いても、必要以上に鬱陶しくないあたりは、周囲に散りばめられたギャグや笑い話がきちんと効いているからだろう。

ブックオフで全巻まとめて購入後、スラスラ一気に読んでしまった。やっぱり面白かった。

個人的に感情移入してしまったのは、ストーリーではかなり後半に登場する、常盤さんという女生徒だった。前の学校でお付き合いをしていた男子生徒に騙され、集団レイプにあったために男性が信じられず、それがエスカレートして周囲のオトナ達までをも嫌うようになった……という設定の女の子である。彼女が冬月先生という女性教師に、あるイジメを行いながら言うのだ。

「先生って、文字通り先に生まれただけじゃん」

まぁちょいとウロ覚えなのだけれど――フツーの家庭に育ってフツーに学校行ってフツーに大学を出た人に、一体何を教わるっていうの? 先生っていったって、先に生まれただけでしょ、あんたに教わることなんてナニもないよ――といった内容をぶつけるのだ。

私も似たような思いを抱きながら、学校に通っていた。だからといって教師に対して反抗的になった経験は一度もないけれど、それにしたって今にして思えばやっぱりガキだったなぁ、と恥ずかしくもなる。それでもあの頃本当に私は、教師――正確に言うと出会った教師が信用できなくって、仕方なかった。ストレートで大学に入学、卒業後すぐに赴任して…なんて、「学校」っていう枠組でしか自分を試したことのないような人に、社会とは何ぞやとかいった、説教染みたことを教室で話して欲しくなかった。受験に対応した勉強さえしっかり教えてくれればいいし、そういった環境は申し分なかったのだけれど、かといって、偏差値の低い大学出身の教師に受験のノウハウであるとか、あるいはイイ大学目指して頑張ろうとか、言われたくなかった。それでいて私はマセガキだったので、異性にモテなさそうな、異性とぶつかりあったこともないような教師は嫌いだった。異性との様々な経験って、ごく普通の親子、友人関係では味わえない、またそれらとは別種の人間臭さであるとかドロ臭さを体感する大切なものだと思うし、それを知らない人なんて不完全なんじゃないかと思っていたし――今でもこの点に関しては、以前ほどではないにせよ、心のどこかで拘っているところはある。オトコでもオンナでも、さすがに三十までにはマトモで本気の恋愛してみなさいよ、なんてね。

社会人として会社で働くようになってから、このガキ臭さはある程度(本当はきちんと、と言いたいところなのだけれど)矯正されたけれど、この部分を読んだ際になんだかあの頃の気持ちがちょっとリアルに蘇って、ひどく懐かしくなった。まぁ懐かしむべき思い出とは言い難いのだけれど、思春期時代の気持ちって普段はめっきり忘れているものだし、思い出すこともないので、良いきっかけだったな、と思っている。思い出したって今子供がいるわけではないので、すぐに役立つなんてことはないのだけれど、いつかいい意味で活かすことができたら理想的だ。

ちなみにおそらく、私が教師に対してあのような気持ちを抱いたのは、今にして思うと極度のファザコンであったせいだろう。甘やかされていたわけではない、と自負したいが、とりあえず私は父にべったりで育った。父が読んだ本を手に取り、父の好きな分野を学ぼうと懸命だったし、大学は父と同じところを第一志望にして進んだ。さすがに中学生や高校生になっても父が一番で他に好きな男子も出来ない、なんてことはなかったけれど、何かを選択するにつけて「お父さんとどういう話をしようかな」「お父さんだったら何て返事するかな」……なんて、父と楽しく会話をすることが目的でもあったし、それが心底の願いだったのだ。父はいつも私の視点がガラリと変わる新しいエッセンスを提供してくれたし、時折厳しいことを言われて泣いたりもしたけれど、大好きだった。

父以外の師なんていらない、そんな気持ちが根強いことに気づいたのは、なんと社会人になってからで――上司と父を比べている自分に気づいたのだ。「父であれば他人にこんな物言いはしないだろう」とか、「父だったらもっと神経質に取り掛かるのに」とか、もう全く笑ってしまうでしょう皆様。つまるところ二十三歳になるまで、私は極度のファザコンで、どっぷり父のお皿の中にハマっていたわけで――あぁ恥ずかしい。

まぁそんな私であったから、思春期に出会ったオトナである教師を無意識のうちに父と比べて――「一体アンタたちナンなのさ」ってな気持ちになってしまうのは、当然な流れであると同時に、そのナンだ、やっぱり子供だったのだなぁと社会人になってしみじみしたわけである。やっぱり社会に足を踏み入れないと見えないモノってのが絶対にあるものだな、と恥ずかしくなってしまう。

それでもまぁ、相変わらずファザコンはファザコンで、今でもメールのやり取りは頻繁にするし、数ヶ月に一度は帰省して一緒にお酒を飲むしであるのだけれど――あぁ、本当に照れくさくなってきたので、この辺で。おかしいな、暴露バトンは終わったはずなのだけれど、一体ナニを書いちゃってるんだろうというところで、ごきげんよう皆様。

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2007年2月23日 (金)

花より男子、いいねぇ

いい。いいよ、やっぱり、「花より男子」っていうか、松本潤くんと小栗旬さん。大してこのドラマに熱中して毎回観ているほどではないのだけれど、テレビをつけているときに流れる予告だとか、さっきもテレビをチラっとつけたらまさにドラマがオンエア中で、いやー、もう、この二人の男子が可愛くってしょうがない。そう、カワイイのだ。ストーリーそのものは既に漫画を読んでいるから、二人がどんな役なのか解っているし、ドラマのキャラがあってこその「いやーカワイイッ!」(←バカ)であって、特別この二人のファンであったわけではないのだけれど、まぁとにかくなんだか、カワイイのだこの二人。

かといってこの二人、もう立派な青年なのであって、「カッコイイ」と思うのが本来の愛で方なのだろうし、確かにこのドラマを離れて、例えば彼らそれぞれのプロフィール写真などを見てみれば「うーん、カッコいいのかも…しれない…」(←微妙に消極的)とは思うのだけれど、どうしてもこのドラマの役柄・キャラクターってのが良くも悪くも色眼鏡になってしまって、「カワイイ」になってしまうのだ。だって、高校生ぐらいの男子が真面目に恋愛して、躍起になっちゃってるわけで、その姿ってそりゃぁもう、ホント、カワイすぎて、ほんの僅かな予告編だけでしっかりとパワー(女性ホルモン)を貰っちゃっているのだ、私は。

……まぁそんなこんなで、「花より男子」のテレビ版はマトモに観ていないのだけれど(それはドラマの出来の問題ではなくて、私が単純にあんまり連続ドラマをチェックしない性質なだけなのだけれど)、漫画原作は漫画喫茶でしっかり読破した。私が中学生の頃にはとっくに連載が始まっていた覚えがある。掲載されていた少女漫画誌「マーガレット」もクラスの女子の間ではわりと人気があって、こっそり回し読みなんかもされていた。それでも、漫画はやっぱり、なるべくコミックスでまとめてガッツリ、最初から最後まで揃った状態で読みたいと思っていた私は当時、手に取ることはなく――結局、「花より男子」を読んだのは、連載が終わったことと、その作品の存在を思い出した頃で、大学生活を残すところあと一年という時分になってしまった。

面白かった。漫画も漫画、しかも少女漫画という世界であるだけに、突拍子もない設定と人物像だらけだったし、コマ割もネームの数もなんだかスカスカで、"漫画"としてどこまで完成されているかと問われると閉口してしまう部分はあるのだけれど、ここぞという時にキメるヒーロー像であるとか、ややこしい状況にメゲたり立ち向かったりするヒロインの姿であるとか、少女漫画としてのツボはしっかり押さえられた作品で、よかった。

特に"財閥"というドデカい家の御曹司と、彼氏彼女の関係になりつつある中、彼の母に咎められマトモな交際を育むことができず――そういうことって今でも絶対に現実にあるのだけれど、例えば家柄であるとか、所有している財産であるとか、少なくとも今すぐに自分では解決できないことを、他人にならまだしも、好きな相手の親に責められるというのは本当に辛いことだ。悲しくもなる。その辺の具合が、まぁ少女漫画なのでやっぱり展開にリアリティーはないのだけれど、それでも読者の共感を誘うカタチでよく描けていた。このヒロイン、一度か二度、逃げるのである。

随分前に読んだのでウロ覚えなのだけれど、諸事情によってヒロインが御曹司である相手の家に居候することになってしばらくして、彼の母親が外国から突然帰宅する。「見つかったらヤバい」と、コソコソコソコソ…荷物をまとめて、逃げるのだ。従来のオトメ道まっしぐらな漫画であれば、ここは一つ、逃げることなしに毅然とした態度で、彼の母に対峙するところだろうし、それまでのヒロインの姿も活発で言いたいことはビシっと言う小気味良いものだったので、てっきりそうするモノだと思わせたのだが――しっかり、逃げた。この他にも「もうムリ」と彼女が弱音を吐くシーンはわりとあって、ソコがよかった。どんなに元気でプラス思考で根性のある女性であっても、それほどの状況になったら逃げたくなってしまうわけで、その辺がきちんと描かれている点に非常に好感が持てた。しかもその逃げ方が、これまたみっともないのもよかった。

誰だって、リアルに同じ状況にあったら絶対にムリだと思うはずで、「いやいや愛さえあれば…」とか何とか言って――「互いの気持ちさえあれば、絶対に大丈夫」と信じてなんかいられない。気持ちなんかあってもカネも家柄もないわけだし、カネと家柄を埋めるのは決して互いの気持ちじゃないのが現実だ。この現実を掲げるのが他の誰でもなく相手の母親だというのは、本当にキツい状況なのだけれど、より一層改めて現実の厳しさと直面するのであって――「あぁこりゃ、絶対ムリだ」と諦めた方がいっそのこと良いと殆どの方が思うだろう。ここでやっぱり「気持ちさえあれば」だなんて思える方は、よほど強い方なのか、あるいはそれでもなお現実を体感できない不感症なのか、どちらかだ。

じゃぁ結局ムリなんじゃん、……と思いきや、そうでもない。カネと家柄なんて、互いの気持ちだけでは埋められないのだけれど、例えば周囲の方々の温情や親切、気遣いによって何とかなる。友人なり、相手の家族親戚の誰かなり、自らの親であったりと、様々な周囲の存在が、それぞれ手を差し伸べてくれることがあるのだ。その親切が故意であるのか偶然なのか、色々ケースはあるのだけれど、結果的に周囲の方々が助けてくれるカタチとなって――カネと家柄を超えることができる、と思うし、「花より男子」はそういうストーリーだったように記憶している。

大切なことは、互いの気持ちや関係だけではなく、周囲にどれだけ良き理解者がいてくれるか、あるいはそんな人間関係を形作れるか――恋愛のような個人の利己的な感情を支えるのは、自分だけでもなく相手だけでもないということ。もちろん当事者同士の気持ちが一番重要で、コレがなきゃ始まらないのだけれど、その後を支えてくれているのは意外と自分たちだけでもない。周囲の優しい方々のお陰でもあるわけで、そんな環境にあることにたまには感謝しよう。そういうわけで、私は自分の親と旦那と旦那の母への感謝を忘れちゃならないなぁ、と思った。普段何気なく暮らしているとつい、忘れてしまう。

それはさておき、松本潤くんと、小栗旬さん、カワイすぎてもう、メロメロだ。なぜ松本潤「くん」で、小栗旬「さん」なのかは、自分でもワケがわからないが、とにかくカワイイ。いいなぁ。その辺、歩いててくれないかな。歩いてたら、遠くからそっと見つめてホクホクしたいなぁ……なんてポワンとしてたら、旦那が今「オレ小栗旬に似てるじゃん」とか言っているので、とりあえず殴っておく。

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2007年1月 6日 (土)

下品な渋谷の自警団

何日か前、テレビ朝日のワイドショー(ワイドショーのくせに、いっぱしの報道ぶった昼間の番組)で観たのだけれど、なんでも渋谷には自警団の方々がいらっしゃるのだそうだ。男性数人で渋谷の街を練り歩き、路上駐車や喫煙、各店舗敷地外での呼び込み、下品にはしゃぐ若者といった、様々な迷惑行為に対し注意をしていく。平均年齢はちょっとわからないが、見たところ、中年にさしかかったか、あるいはそれを超えたほどの男性が多いようだ。

学生時代の遊び場がもっぱら新宿であった私は、どうにも渋谷は馴染みが薄い。大学から近い繁華街が新宿だった、という理由も大きいが、上京したての頃はこんな田舎モノが渋谷を歩いたらカッコ悪いだろうなぁと気後れしていたし、東京での生活に馴れた頃は、渋谷は女子高生(高校生)の街だというイメージがやたら強くって、やっぱり気後れしていた。とにかく渋谷ってオシャレな街なのだ、という先入観がどうにも払拭できず、多少は歩くようになった今でもいまだに自分が落ち着ける店(雀荘も含めて)を見つけていない。せいぜい、24時間営業し続ける居酒屋「やまが」ぐらいである。新宿はその点、オシャレスポットもありつつ小汚い居酒屋、雀荘、ひいては二丁目という世界もある。別に小汚い居酒屋に進んで入ろうとはビタ一文思わないし、だからといってナンなのだけれど、やたらと歩きやすい。新宿を歩いている人々はあからさまに多種多様で、一般化され難いからかもしれない……まぁ、そんなの、渋谷だって同じなのだけれど。

だから東京に住んでいるくせに、渋谷の街を見るのは殆どブラウン管越しだった。サッカーの国際試合があれば大暴れする若者、深夜とりあえず座り込む若者、それらを叱責してはヤメさせようとする警察などのオトナ達――渋谷が映し出される一つのパターンだ。かといって、渋谷の街を歩く若者全てがイカれてしまっているなんて思わないし、きっとその傍には、ごく普通の生活を保つ人々が歩いているのだろう。まぁでも確かに、何かに暴走してはしゃぎまわったり、帰るアテもなくうろつく若者が多い街ではある。新宿にはあまりこういった光景は見られないし(せいぜい早慶戦後のコマ劇前ぐらいで、集まる人間は大学生である)、若者よりはオトナのちょっとダークな厄介事の方が目につくかもしれない。

これからの世の中を形作る若者が道を踏み外しているのならば引導を渡さねばならないし、若者にダメな大人の姿を見せぬためにも、オトナの迷惑行為にはきっちり注意する――渋谷の自警団の方々のモチベーションは、そんなところだろうか。もちろん、渋谷を美しい街にすることも目標の一つなのだろうけれど。何にせよ、ご立派な志だ。

そんなわけで、渋谷の自警団の方々が街を闊歩するVTRを観ていたのだけれど。



……酷い。



例えば違法駐車やキャッチセールス、路上喫煙に対して、しっかり注意するその行動は立派なのだけれど――最初から最後まで言葉遣いが酷い。「ヤメろ、コラ」だの「かかってこいや、コノヤロー」だの、これでは違法者と同じ土俵にいるのと何ら変わりがない。品性が、全くない。
あろうことか、「死ね!」と発言しているメンバーもいた。あるキャッチセールスに携わる若者が、自警団の姿を見て颯爽と逃げていく。その際、若者は「死ね!」とメンバーに捨て台詞を残した。それに対しメンバーもひるまず、「死ね!」である。
……なんじゃそりゃ。脱力してしまった。

確かにふてぶてしい人間も多いため、それなりの腕っぷしを感じさせられるような迫力は必要だろう。ただでさえ、他人を省みることができないからこそ迷惑行為に手を染めるのであって、そういった人間が他者へ粗暴な態度をとることもまた珍しくない。自警団である以上、そんな輩に負けるわけにもいかないわけで、相手を威圧する空気を作り出すことも有益だろう――が、だからといって、初っ端から喧嘩腰ではオトナとは言えないし、私が若者であればそんな奴らの言うことには耳を貸したくない。全く品性がなく、尊敬も信用もできないからだ。

また、こんなシーンもあった。路上喫煙を注意された若者が、「なんでオマエラ最初からタメ口なんだよ!」と食って掛かる。むろん悪いのは若者で、喫煙者としてのマナーを持つべきなのだけれど、その時既にこの自警団に懐疑的だった私は思わず、「おぉ、果敢だなぁ」とその元気に笑顔を作ってしまった。タメ口をきいていい場合とそうでない場合を彼は知っていて、だからこそその疑問を初対面の自警団にぶつけている。オトナとコドモが相対する、その場面で――自警団のメンバーは、はっきりとした答えをそこで提示しなかった。
逃げたんだな、と視聴者である私は感じた。その答えは別に論理的でなくともいいのだ。「アナタはコドモでオレ達はオトナ」といった、感情論であってもいい。彼らなりの、自分たちの行動に対する理由を明言するだけでもよかった。逃げることが一番タチが悪い。自らの行動を説明できず、目を反らし言葉を濁す人間に、一体他人の何を注意できるだろう。まぁ、念のため繰り返し言うと、明らかに迷惑行為をしていたのはその若者なのだけれど。

彼らの自警団は私設で、警察などの公的機関とこれといった関係はないらしいが、なるほどそれだけあって甚だみっともなかった。例えるなら――そう、出来の悪い体育教師のような面々だった。志は悪くないのだけれど、それを体現するべき知性と品性に大幅に欠けるあまりに、説得力がない。人の振り見て我が振りなおせ、とは言うものだが、彼らにも「我が振り」は抜けているようだ。ひたすら、責めるのみ――荒唐無稽である。

他人様に注意をするためには、それなりの資格が要る。公的機関の人間としてそれを全うするには試験が必要だし、私的な場面であれば例えば相手との関係性――教師であるとか(まぁコレも公的機関で行われるものだけれど)――も重要な要素であるし、オトナであるとかコドモであるとか、目上か目下か、そういった立場も大切だ。けれどもしかし、最も重要な資格は、相手に対して模範となれる人間か否か、である。説得力のない人間が他人を説得するほど無駄な行為もないだろう。

自警団とは響きも立派だし、街を美化したい、若者を更正させたいといったお題目も決して悪くない。こういった団体が存在することは無意味ではないが、メンバーがこれでは無駄なのだ。彼らはある程度の「恐れ」を相手に与えることはできるかもしれないが、「畏れ」を全く感じさせない。それでは、問題の解決にならないのだ。父親の重みある言葉に頷くことはできても、竹刀を無駄に振り回す体育教師の言うことを一体誰が聞きたいと思うだろう。
必要以上に粗暴なセリフを吐くことなく、知性と品性とちょっとした腕っぷしを感じさせるような態度で、相手を大人しく信用させられるオトナはいないものだろうか。大雑把にまとめてしまえば、威厳が必要とされているのだ。たかが街の私設自警団に威厳なんてね、と思う方もいらっしゃるだろうが、それがなければ他人の是非を正すなんてマネはできない。

みっともないオトナの姿が、これまた情けないカタチで全国放映されたわけだ。

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2006年11月21日 (火)

デスノート晩餐

映画「デスノート~the Last name~」を観た。何でも後編は原作と異なるラストを迎えているらしく、前編をテレビで観てしまった人間としては非常に気になるところだったし、公開初日から早数週間経った今ならばさすがに満席ということもなかろうと、旦那と共に映画館へ足を運んだ。

雨のせいもあってか予想以上に空いていた。あるいは、月曜日という週の始まりであったせいかもしれない。全体のおよそ三分の一程度しか席は埋まっておらず、私と旦那の両隣も空席で、とても快適だった。私達がよく利用する映画館はわりと席や列の間が広めに作られているので、多少混雑していてもそこそこリラックスできるのだけれど、さすがに隣に見知らぬ誰かがいると全く気遣わぬわけにはいかない。あまりワガママを言ってはいけないと承知しつつも、少しでも映画館では寛いでいたいし、できることなら寝転んで鑑賞できれば最高なのだけれど、まぁそうもいかない。せめて気兼ねなく足を伸ばせる幸運に授かれるよう、旦那ともども祈っていたのが通じたようだ。

というわけで、足を伸ばし椅子にだらしなくもたれかかり、なるべく身体の力を抜きながら鑑賞できた。既に原作を読んだ後なので、ついついそれと照らし合わせながら観ることになってしまうし、マンガの映画化とは大概にして原作の方が優れているので(というのは、マンガの抽象化された世界観は実写に向いていないせいなのだけれど)、ひょっとするとラストは詰まらなく感じてしまうかも……と危惧していたのだが、それは杞憂に過ぎなかった。原作を知る分の物足りなさは感じたものの、面白かった。

※コレより先、ネタバレもありますのでご注意ください。

本作は二人の若者によって正義の在り方が問われる物語である。

主人公である夜神月(やがみらいと)はデスノートを利用し、正当な罰を下すという大義名分のもと、夥しい大量の犯罪者殺人を繰り返す。彼の行動を「まさに正当な、これこそ正義だ」と支持する一般人はやがて彼を「キラ」と呼び崇め始める。これは何となく、被害者の泣き寝入りのような判決が繰り出され続ける、昨今の世相を現しているようでもある。
しかし、犯罪者の裁きや罰を下す権限とは、人間がこれまで正しくあるべき姿を追求した結晶である法律のもとに――例えそれが不当な判決を招くことになっても――行われるべきで、個人による恣意的な判断をしてはならないとする、Lなる謎の名探偵、及び警察関係者はキラを逮捕すべく捜査に心血を注ぐ。
注目すべきはどちらも自分ひとりの鬱憤を晴らすためではなく、「犯罪者なき優しい世の中」の構築を真剣に願っていることで、この点に関しては相反するものはないことだ。そのために主人公・夜神月も、Lを始めとする捜査本部の人間も心を砕いているのだ。本作の面白味は、この二つの平行線とその駆け引きにある。

ただ映画ではあまりこれらの姿が、原作ほど重厚ではなかった。また、原作ではLの後継者であるニアがキラを追い詰めるのに対し、映画ではあくまでも「キラ VS L」という図式を保っている。 その他の登場人物の役割にも違いがある。
しかし、仕方のないことかもしれない。マンガ原作では、「キラ」が全世界の秩序システムを掌握してしまいかねないほど、彼の支配とやらは長く続いたのだ。その間に起きた様々な事象を映画に詰め込むのはほぼ不可能だし、何もかも原作通りの筋書きが観客にウケるとは限らない――例えば映画「NANA」のように、原作マンガのコマを忠実に再現しようと心を砕く余り、退屈な仕上がりとなってしまった例もある。限られた時間の中で、映画らしく、原作の世界観を守りながらどれだけお客を楽しませるか、が大切なのだ――それでも、やはり醍醐味である駆け引きの緊張感を、いま少し盛り込むことができなかったのかと悔やまれるのだが。

まぁそれも、原作にふけってしまった後だからこそ感ずるものかもしれない。確かに前編映画がテレビ放映された頃は原作を手にとっていなかったのだが、あれはあれで十分に楽しめた。

むしろ原作よりも胸を打たれた展開もあった。「キラ」である主人公・夜神月の父は、キラ捜査本部に属する警察官なのだが、原作ではよもや息子がキラであるとは露知らず、死を迎える。しかし映画では息子を追い詰める、重要な役割を担うのである。自らの息子が”大量殺人鬼”であったと目前で証明されるわけだが、その際「お前の信ずる正義は正義ではないのだ」と毅然と諭す、男親らしい態度がよかった。
「キラ」なる人物をいかに解釈するか個々によって異なるだろうが、個人的には正義感は強いにせよ、未だ社会を知らぬ頭でっかちの学生の理論を振りかざす、幼児的な性質をどうしても拭えぬ存在に見える。このような存在には、社会という公の世界を生き抜いてきた、身近な人間――家庭では父親が現実を諭さねばならない。息子の過ちから目を反らさず、それは過ちなのだと怒りも悲しみも込めて諭す態度は非常に素敵だった。

そしてラスト、自らがキラであることが露見した際の、藤原竜也さんの演技。とてもよかった。自らの正義感が強いあまりに、死神とデスノートというツールに飲み込まれ、少し気が狂ってしまった雰囲気がよくにじみ出ていたし、哀れな結末を程よく惨めに演じ切れていたように思う。ここまで、気がふれてくれるのであれば、せめて三部作まで引っ張っていかに「キラ」がやり手だったのか、彼の理想としているあるいは訴えかけたい内容を、いま少し具体化したところで――ボロボロになって欲しかったとも感じた。それぐらい真に迫ったもので、今となっては前後編にまとめられてしまったことが口惜しい(それにしても、藤原竜也さんは「バトルロワイアル」シリーズなど、なんだか社会に疑問を投げかける若者の役が似合う方だ)。

しかし、このような物語が制作され、ウケているという現実はなんとなく残念である。小説など、人間の創作した物語が世を映す鏡であるとするならば、現在の世の中は”正義”の内容や、罪と罰のバランスへ人々が疑問を感じていることになる。確かに、日本の法整備はなぜか加害者に甘い感も拭えないし、人権という海外からのエッセンスが放り込まれてせいぜい一世紀経つか経たぬかといったところなので、まだまだ練られるべき余地が過分にあるだろう。長い歴史の中で私達が培ってきた倫理観と、輸入された人権意識、また現在ある犯罪とその判決状況もろもろを加味し、未来に残すべき秩序の根本たる法が望まれているのかもしれない。デスノートブームを見るにつけ、こんな風に感じるのはちょっと考えすぎなのかもしれないが。

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2006年11月11日 (土)

デスノート日和

週末には打ちに行こうか、なんて旦那と話をしていても、しばらくスロットに触れていないと「まぁ、打たなくてもいいか」…と消極的な気分になる。打ちたいね、打ちに行けばよかったかなぁ、と思ったり互いに話したりもするものの、いまいち本気になれない。考えてみれば、スロット以前に二人で飲みに行くようなゆとりも持てなかったわけだし、私などは買い物にも満足に出かけられなかったのだから、まずそういった欲求を満たしたい思いが先立ってしまう。それに、亡くなった愛鳥は、間違いなく私達がスロットに興じている間に具合が悪くなったのだから――なんとなく、残った片割れの愛鳥を思うと、もう少し打つ機会を先延ばしにしたくなってしまうのかもしれない。もう随分よくなったのだから、長時間の外出など特別気にすることもないのだけれど。

そんなわけで、昨日はとりあえず買い物でもしようかと、服や化粧品を物色してみるもののピンと来るものもなく……結局「デスノート」全12巻を買って帰宅した。映画版の前編が先日テレビ放映され、その後劇場公開となった後編もオープニング三日間で興行収入12億円強と、今年一番の大ヒットを飛ばした大人気映画の原作である。やれやれ、せっかく外出してもマンガをオトナ買いとは、すっかり家に引きこもるのが好きになってしまったようだ。

映画前編がテレビ放映され、たまたま観ることもなければ、決して原作どころか「デスノート」そのものに興味を抱くことなどなかった。"名前を書かれた人間は必ず死んでしまうノート""死神"といった単語から連想して、ちょっと不気味で乾いた高校生の日常をゲームっぽい世界観で描いたものなのだろうな、と単純な先入観を持っていて、あまり自分の好みでない娯楽のように感じていた。

しかし映画前編を観てしまうと――ううむ、いまいち現実感の湧かない設定…例えば天才と称される学生の主人公や、Lと呼ばれる世界トップレベルの探偵的指揮官(しかも若者)などなど、即時に感情移入はしづらいものの――面白かった。もともと先が気になる恋愛以外のハラハラドキドキストーリー全般は、大好きなのだ。つまり「余り馴染めそうもない設定だなぁ」とそれなりの理由をもって敬遠してみるものの、それはただの食わず嫌いで、観てしまえば面白いと大したコダワリも見せず太鼓判を押してしまうような、ポリシーのない人間なのである私は。

先が気になるものの、映画後編は何でも大賑わいで劇場も随分込んでいるという。旦那も私も人ごみは苦手ではないものの、どちらかというと映画館でも寛いでいたいので、いま少しブームが落ち着いてから劇場へ足を運びたい。というわけで、原作を手に入れたわけだ。

本作は週間少年ジャンプで連載されていたもので、原作は大場つぐみさん、漫画家は「ヒカルの碁」で知られる小畑健さん。少年ジャンプは全く手に取る機会がなかったので、これが初読となったわけだけれど、なぜ今まで読まなかったのだろうと後悔するほど面白かった。若干、ネームの量が多く、画よりもセリフでストーリーが進んでいく手法に疲れたし、いっそのこと小説にしてくれたほうが読みやすかったが――やっぱり面白かった。

あらすじに関しては、まぁ既にご存知の方も多いだろうし、あるいは未読の方にはネタバレとなってしまうので省かせて頂くが――自らの信じる正義こそが、正当なものなのであると主張する二人の若者の対峙が、スリリングにそれでいて少年マンガチックに描かれている。そして正義という価値観が示すものは、人物や世相や諸々の状況によってカタチを変えてしまう不条理なものであること、だからこそ最終的には自ら判断することが必要となるのであるという、なかなかオトナがコドモに教えづらい面倒事を上手く表現しきっており――こういった作品を子供が読むのは、良いものだなぁと感じた。

"デスノート"によって死んでいく人間は基本的に罪を犯した――殺人などによって他者を傷つけたり悲しませた人間なのだが、彼らが死んで当然な存在なのか、当然であっても罰に至るまではどのような経緯であるべきなのかを一考させられる。確かに人間がバタバタと節操なく死んでいく展開は、所謂コドモ向けではないのかもしれないが、こういった疑問を享受することはむしろコドモにとってはプラスに働くかもしれない。昨今、殺人者に対する罪と罰の天秤が果たして釣り合っているのか、オトナですら判断のつかない風潮であるのだ。

また主人公が"デスノート"を所有するきっかけとなった"死神"の存在であるが、現実にいないキャラクターのわりに一番現実的な存在だった。退屈だから、面白いから、といった理由で主人公に憑き、デスノートを使用する様を見続け、最終的に主人公が追い込まれると「もう退屈しのぎは終わりだ」とアッサリ見放す。仮にも主人公は主人公なりの正義のために懸命になっていたのだが、全く情を移さず、かといって主人公の敵に感情移入したわけでもなく、ただ、面白くなくなったからと主人公を殺すのだ。
第三者とは常に、圧倒的に他人事な判断をするものだが、曲がりなりにも人を幸せに導くのだという優しげな夢にですら「エンターテインメント」を求め、つまらなくなればポイ捨てするという一見、非情ぶり。しかしこれが――例えば痛ましい殺人事件の報道を見つめる、私を含めた一般的な聴衆の姿なのかもしれない。

先に述べたように、あまりファンタジックなストーリーは食指が動かないのだけれど、ここまでのめり込んでしまうとは思わなかった。「正義」を取り巻く世の中の様々な存在が象徴的に描かれた本作は、コドモはおろかオトナが読んだって十分に楽しめる。原作コミックスは既に完結しており、ブームで品切れの書店も多いと聞くが、機会があれば一度手にとってみては如何だろうか。

DEATH NOTE (2) Book DEATH NOTE (2)

著者:大場 つぐみ,小畑 健
販売元:集英社
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2006年10月31日 (火)

「アンフェア」の何がアンフェアか、って

9月下旬だったろうか。関東ではフジテレビで再放送がされていたドラマ「アンフェア」。他局ではワイドショーなる井戸端会議が繰り広げられている時間、フジテレビでは主演・篠原涼子さん演じるオンナ刑事(雪平夏見)が、謎多き事件を次々と小気味良く解決していくサスペンス・ドラマが放映されていた。

日常ではその時間帯はまさにご飯で膨れた腹を抱えながら、掃除に勤しむべきものだった。けれども、ある日とりあえずテレビとつけたが最後、夕方までハラハラドキドキ、寺島進さんカッコいい…とうっとりする時間となってしまった。ちなみに既に放送終了となっているので、現在はやはり膨れた腹の重みに耐えつつ掃除をしたり、先だって亡くなった愛鳥の片割れの世話をしたりしている。

※ご注意…ここから先はストーリーに関する話題です。ネタバレもありますので、万が一「今DVD観てるんだよ!! 先を言わないでくれよ、わぁー」と耳を塞いでおられる方は、ご遠慮した方がよろしいかと思われます。そしてストーリー全てをご堪能の後、「へえ~」とお手元のへぇボタンを20回押して下さい。ムリは承知です。

篠原涼子さん演じるオンナ刑事・雪平夏見は、署内検挙率ナンバーワンの敏腕刑事である。黒のロングコートをまとい、髪をなびかせ颯爽と歩く姿が素敵で、ハンサムな魅力あふれる女性だ。プライベートでは大酒飲み、部屋はちらかし放題と、一般の理想とされる女性像とは異なるかもしれないが、ガサツでありながらも仕事ぶりは立派で、オトコマエな美しさを体現したヒロインだ。
その彼女が解決した一連の事件、それらは自らへの「復讐」が目的であったことにたどり着く。一体誰が後ろで糸を引いているのか、復讐の動機は何か…謎につつまれた真犯人はドラマ最終回に現れる。

サスペンス・ドラマのお約束「意外な展開」通り、真犯人は主人公・雪平の舎弟分でもあり相棒でもあり、彼女とプラトニックな愛情関係にもあった瑛太演じる安藤だった。彼は5年前、パチンコ店で起きた殺人事件の犯人を射殺した彼女に恨みを抱いていたのだ。

パチンコ店殺人事件の犯人は未だ17歳の少年だった。彼と安藤は新宿のコインロッカーに捨てられていたいわゆる”コインロッカーベイビー”で、ともに施設で育ち、中学卒業後はともに一部屋のボロアパートに住み、苦楽を共にした兄弟のような間柄だった。いずれパチンコ店の従業員を数人刺殺することになるこの少年は、頭のキレる安藤を進学させるために18歳未満であるにかかわらず、パチンコ店で働き始める。

しかし親もなく未成年の少年を、パチンコ店は冷遇するのだ。給料の未払いがその一例なのだが――度重なる嫌がらせにしびれを切らした少年の同居人・安藤が、せめて少年に給料を支払ってくれと懇願した際、暴力で返されてしまう。このままではいけないと、泥沼の生活を洗い流すかのように、少年はパチンコ店の従業員を数人刺殺する。

犯行に及んだ少年が最後に店長を人質にとった際、現場へかけつけたのは雪平刑事だった。彼女は「私の目の前で人を殺させない」と、今にも店長の首にナイフを突き刺す勢いの少年を――射殺するのだ。殺人犯といえども安藤にとっては兄弟ともいうべき少年。なぜその生を奪ってしまうのか、と雪平刑事への恨みが募り――復讐へと思い至ったのだそうだ。

そうして安藤は勉学に励み警察学校を卒業し、標的とも言うべき雪平刑事に近づき一連の事件の黒幕的存在となるのだが――これらは最終回で明らかにされる。

……なんじゃそりゃ、である。

一体何がなんじゃそりゃ、って、パチンコパチスロ歴の長い方や、パチンコ店で就業経験のある方などはピンと来られるだろう。パチンコ屋が18歳未満の少年を雇う状況はまずあり得ない。黎明期のパチンコ業界ならまだしも、「アンフェア」はここ数年に時間設定されたドラマである。警察の管理下に置かれ、不正行為に喧しくなった状況で店が少年を雇うなど、あるだろうか。給与未払いなどもってのほかではないだろうか――いまいちリアリティに欠けたエピソードなのだ。また仮にこういった状況があり得るにせよ、読者のハテナが入り込む隙間は過分にある。未成年で保護者不在の経歴が邪魔ならば、少年が詐称してしまえばよいことだし(詐欺罪にあたるが…パチンコ屋が一介のバイト店員の身元調査をすることも殆どないだろう)、パチンコ屋でのバイト料よりも新聞配達のそれの方が割もよければ、ずっと健全である。他の仕事を選べばよいのだ。

さらに私がお茶を噴いた場面は続く。

自らが犯人であることが露見した安藤は、最後の始末をするために少年が事件を犯した現場であるパチンコ店へ向う。あのとき少年が殺すに至らなかった店長に、復讐するためだ。

どこのパチンコ屋を拝借したのか不明だが、ずいぶんキレイな駐車場つきの大型店である。安藤は自動ドアが開くなり颯爽と入店し、カウンターへ一直線。赤いチョッキと白いブラウスの制服に身を包んだ、ボブカットのカウンター嬢に「店長は?」と一言。カウンター嬢が「三階の事務所です」と即答すると、安藤は裏の階段に回りツカツカと向う。

……って身元も確認せずに、なんでアッサリ事務所の場所を教えるんじゃ。いや、百歩譲って考えてみれば、カウンター嬢が「どちらさまで…」と尋ねた瞬間、安藤が警察手帳を見せる、この手間を省いた作りとなっているのかもしれない。でも、なんだか、やっぱりリアリティーがない。パチンコ屋はお客を呼び込むために開放的な雰囲気を作り出しているけれど、その実、舞台裏を決してオープンにすることはない。訪ねてくる方々は基本的にアポイントメントが必要で、仮になければ店側の人間と相応の信頼関係が必須である。また飛び込みの営業など、突然の来訪者に対しては必ず会社名・芳名を問い、インカム等で店長など役職の人間に伝達するのが――カウンター及び店内業務に携わる従業員の役目なのだ。

さらに、だ。

三階の事務所の扉を見つけた安藤は、素早く扉を開け事務所に入り、店長を見つけるや否や――銃を構える。

……って、いまどき事務所にカギをかけないパチンコ屋があるのだろうか。

パチンコ屋の事務所は営業の核ともいえる部分で、書類やら、パチンコパチスロ台のカギ、設定キー、あらゆるデータの詰まったパソコンなど、様々な重要なものが置かれているわけだが、何よりも売上金を保管した金庫があるのだ(中には金庫のみ別室で厳重に管理する店もあるようだが)。現金が商売道具といっても過言ではないパチンコ店が、現金を管理する部屋にカギをかけないなんて状況は現実的ではない。

どのようなカギによって施錠するかは多様だが、暗証番号を打ち込むことによって開錠されるようなデジタルロック、IDカードによる認証キーなどが一般的に利用され、その管理は非常に厳重である。店によってはバイト・ホール従業員に暗証番号を教えずあるいはIDカードを持たせず、限られた人間しか自由に入室できないよう対処されているところもある。また上記のカギの上に、また高性能なカギをかけるパターンもある。方法は店によって異なるのだが、ともかく、パチンコ屋の事務所は突然の来訪者が入り込めないよう、防犯対策が厳重になされているのである。

その事務所に簡単に入室した安藤が、いくら復讐に燃えようと――なんだか私は萎えてしまった。展開的に、殺人犯の少年の勤務先が何もパチンコ屋でなければならぬ必然的な事情も感じられなかったし、せっかくの最終回だというのにツメが粗い仕上がりで、少し残念な気持ちにもなった。もちろんこのドラマには原作(「推理小説」河出書房出版社・秦建日子著)があって、その舞台設定がどのようなものなのか読んでいないから判らないのだけれど――たとえ舞台設定が、パチンコ屋の防犯レベルが甘い頃であったにせよ(そんな時期があったのか微妙だが)、ドラマ版の時間設定に合わせた現実感を醸し出して欲しかった。痛快なドラマであっただけに、もったいない。

…と屁理屈をこねていると、我ながら「テレビに向って話しかけている寂しい人間のようだ」と、ちょっと情けなくなったのでストーリーに対する素直な感想も書こう。萎えてしまったものの、初回から最終回に至るまでのハラハラドキドキは本物であったし、なんだか物悲しいストーリーだった。最終的に、ヒロイン・雪平刑事が安藤を射殺するのだが――瑛太演じる安藤は見事な好青年で、神経が張り詰めたヒロイン・雪平をしっかりと癒していた。身近な人間が実は…、なんてストーリーはいくつも存在するし、登場人物の誰かに深く感情移入して楽しむような作品でもなかったが、それでも誰か救われた存在がないと視聴者としては雑然とした切なさを覚えてしまう。強いて言えば、ヒロイン雪平の娘である女の子が――口がきけなくなってしまい、通常時は筆談でコミュニケーションをとるのだが――僅かにコトバを発するようになったことが、ラストに用意された救いなのだろうか。

また別の見方をすると、警察官がいとも簡単に銃を取り出す姿が目立ったドラマだった。まるでアメリカのそれのようで、そういった意味でも日本的な現実感は欠けていたのかもしれない。ただ、ストーリー上はあくまでも人を殺傷しようとする人間に向けた、緊迫した状況でのものであったし、むしろ現実にこういった状況では警察官も銃に手をかけても良いと思う。近頃、ナイフを振り回す異常者が、近づいた警官三人を切りつけるという事件があった。異常者に対しまず職務質問を始めた警官(巡査部長)も警官だが、桜の代紋を背負った人間に対する畏怖が失われた昨今、彼らが近づいたからとて未然に防げる痛ましい事件も少なかろうし、何より危険の最前線に立つ自らを守る必要がある。銃の存在感がいかほどか、威力はどれほどか、それによるさらなる痛ましさは想像するしかないのだが、警察官は犯罪を抑止するとともに自らの身も守らねばならない。厄介で気の毒な、それでいて立派な職務であるが、彼らの身あってこそ犯罪は防がれるのだ。いま少し、保身を考えてもいいのではないかと――特に現場の警察官に対し、思った。パチンコ業界に寄生する天下り警察官僚は、知らんが。

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2006年9月19日 (火)

NANA16巻、発売

言わずと知れた大人気コミックの最新刊が、16日金曜日に発売された。

集英社月刊漫画誌「Cookie」(クッキー)で連載されているこの作品、原作単行本は累計3650万部突破、映画化されればウン十億円もの興行収入…と出版不景気なんていずこやらの大ヒットを記録している。

原作者の漫画家としてのキャリアは既に十年以上になるものの、一向に雑誌から浮かび上がってくるような画力は磨かれず、登場人物の表情やセリフ全てのステレオタイプな仕上がりを細かく丁寧な筆致でカバーしているだけの――つまり漫画としての絵やコマ割、ネームはそれほどテクニカルでもない作品なのに――面白い。先が気になる。感情移入してしまう。

ストーリー展開は創作物らしく、いかにもドラマチックなのだが、二人のヒロインが現代を生きる女性の心情を見事に体現しきっているのだ。心許せる誰かが欲しい、自らの仕事で成功したい…読者によって捉え方は様々だろうが、プライベートな感情と社会的な立場に苦悩する女性のもどかしさが実にリアルに描かれている。二人のヒロインの性格が全く異なるため、より一層読者も共感しやすいセッティングとなっているのも魅力の一つだ。

……というわけで、まぁ、ちょうど銭形だのジャグラーだの番長だのでコテンパンにヤられていたココロを癒すべく最新刊を読んでいた。あらすじに触れるのも野暮だろうから省くが、ストーリーもそろそろ大きな転換を迎えそうで楽しみだ。

ところでこの大ヒット作品に、パチンコパチスロメーカーが目をつけぬ筈はないだろう。もちろん私の勝手な予想だが、おそらく版権買いに心を砕いているメーカーの人間はいる筈だと考えている。果たして集英社や原作者が許すか微妙なところではあるが。

ただ幸運にも版権を手に入れられたからといって、大ヒットマシンになるとは限らない。話題性は十分あるため売れるし、初期の稼動も見込めるだろうが、お客の心に残るようなヤミツキの一台になれるとは限らない。原作の世界観を崩さず、ファンのツボを押さえた演出に、パチンコパチスロならではの豊かなゲーム性を上手くかみ合わせて欲しい。パチスロ北斗の拳(初代)がなぜあれほどの支持を受けたのか、作品とのタイアップマシンを制作する際、熟考して欲しいと願うのだ。

Book NANA 16 (16)

著者:矢沢 あい
販売元:集英社
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2006年8月 1日 (火)

怨み屋本舗

Uramiya14_02 集英社ビジネスジャンプにて連載中の「怨み屋本舗」。ドラマ化され、テレビ東京にて毎週金曜深夜24時12分より放送もされている。

ドラマが面白かったので原作もチェックしてみたわけだが、非常に痛快な作品だ。年齢も名前もわからない、ただ「怨み屋」と名乗る女性が、依頼人に代わってその恨みを晴らしていく。その姿が、ひたすら小気味良い。

依頼人の抱える恨みは様々だ。例えば「養父に毎晩犯されている」「妻が若者四人に輪姦された上、殺されたが殺人の証拠も不十分であり彼らが未成年であるため相応の罰が下されない」「時効を迎えた殺人犯が、その殺人事件を語ることによりそれなりの社会的地位を得ている」など。

その他たくさんの怨みのケースがあるのだが、共通しているのは主に「犯人(怨みの対象となる人物)に全く反省の色がない」「犯人のいらぬ思い込みなどで災難がふりかかっている」「犯人の感受性が乏しく、非人間的な行為が突発的におこなわれている」の三点。どれもこれも個人にとってはテロのような犯罪行為が描かれており、また犯人は罪の重さに戦慄くどころか反省もしない。その上、そのような犯人が法律をくぐりぬけ、お天道様の下を堂々と歩いている。このように読者がより作品に入り込めるよう、誰もが苛立ちを覚えるような怒りの対象をしっかりと描く作者の手腕は素晴らしい。

しかし、どうだろう。本当にある現状ではないだろうか。

実際この作品で浮き彫りにされたものの一つとして、司法の無意味さが挙げられる。もちろん司法も被害者の無念を晴らすためだけに機能しているわけではないので、被害者が浮かばれない結果が出ることもあるだろう。けれども、山口母子殺人事件などで見られるような、あまりに罪と罰のバランスが取れない判決が下されるケースがやたら目につく昨今だ。罪の重さを知らしめるだけの法律も完備されていない現在、良心の痛みも感じぬままに犯罪に手を染める人間がどれだけ多いことか。被害者は怒りのやり場もないまま、泣き寝入りするしかないのだ。

本作品ではこのような被害者に依頼を受けた怨み屋が、内容と金額に応じ着実に怨みを晴らしていく。その仕事の的確さにはプロ意識すら覚えるし、年齢も名前も一切わからないという謎めいたセッティングがよりヒーローめいた存在感を醸し出し、怨み屋とはまさに被害者にとっての救世主的存在なのである。現実社会の救世主であるべき司法が頼りないせいか、マンガではより痛快に感じる。お暇な方、興味を持った方、ぜひ手にとっていただきたい。

ただ…残念なのは、巻が進むごとにこのヒーロー感が強まっていることだ。モグリっぽくて、仕事に私情を挟まず必要以上の同情も持たず、サラリと着実に仕事をこなす怨み屋のカッコよさが霞んでしまっている。まるで世直し屋のような存在感になってしまっていて、さながら去勢されてしまった現代のアニメ・ルパン三世のようだ。一般ウケするためには仕方がないのかもしれないが、キャラクターの原点があまり活かされていないと物足りなさを感じる。怨み屋とは人の重たい怨恨を抱え向き合わねばならず、その泥臭さが他のヒーローと違うカッコよさなのだ。

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